僕らの初期設定
少し前に、『「病気がアイデンティティ」の次の段階を目指す』というnoteで決意表明をしたことがあった。
私には持病がある。
けれど、当事者として発信することをやめて、
敢えて別の方向を模索することができるのではないか。
その試みのスタートだった。
しばらく経ち、大きく価値観を揺さぶられる本に出会った。
『これは水です』という本。
アメリカの大学での、ある作家のスピーチを書き起こしたものだ。
僕自身がじかに経験することは
なんであれ
この僕が宇宙の絶対のど真ん中にいて
実存する中で、もっともリアルで生き生きして
だれよりも重要な人物であるという深い確信に支えられています。
(略)
それが僕らの初期設定(デフォルト)だからです。
(略)
大事なことは、もちろん、
この種の状況を考えるとき、
あきらかに違った思考法があるということです。
(略)
スーパーのレジの列で待つ
他の誰もが、おそらく僕と大差なく
退屈していらいらしているのだとか、
そのうちの何人かは、じつはおしなべて
僕よりつらく、殺伐とした
痛ましい人生を送ってきたとか、
そんなこともありうるのだと
強いて自分に考えさせることを選んだっていい。
スピーチはリベラル・アーツを学んだ教養ある学生に向けてのもの。
引用文は「何をどう考えるかコントロールする術を学ぶ」ことの話として
取り上げられたものだ。
自分自身が世界の中心にいるという、初期設定から抜け出して、
いかに「退屈、決まりきった日常、ささいな苛立ち」の情景を
「どう考えるかコントロールする」。
これは、単に物事に意義を見出すとか、ポジティブに捉えるとかよりも、
力のいる難しいことなのではないかと思う。
本を読んで振り返る。
どうして「病気がアイデンティティ」の次を目指したか。
当事者たる何者かになる
に対する違和感があった。
今なら言語化できる。
自分が中心の「初期設定」のままなのに、
固有の苦しみを発信することで昇華され、
安易に「救われる」ことを求める側面を感じたからだ。
もちろん、そんなことなど考えられないくらいの火中で、
「たすけて」と言うしかないときもある。
それは仕方がない。
ただ、落ち着いた時に、
こう思いを馳せると別のものが見えてくるかもしれない。
私が病気で苦しんで救われたいと思っているように、
別の人も別の理由でそう思っているかもしれない、と。
「何者かになる」と思っているうちは、
ずっと自分の都合、自分の世界で動いている。
もちろん「何者かになって」、ああしたい、こうしたい、というのは、
むやみやたらに蓋のできない欲望ではあるけれど。
その欲望の影の部分に最近気づくようになった。
自分の「どうしようもなさ」とか、
「救いたいなにか」とか、
「あがいた結果」とか、
「非生産的で無駄な感覚」とかの、
動かしがたい石のようなもの。
これをなんとかしたいと思っているうちに、
「別の面で救われたい」と考えるようになり、
必要以上のものを求めるようになったのではないか。
自分が中心の「初期設定」のままで。
動かしがたい石を心のなかで見つめる。
石は無くならない。
その周りでしか行動ができないと、感じさせられる。
苦しくなり、絶望感を感じる…前にちょっと立ち止まる。
さっきの本を思い出して。
他の人には別の形の石があるに違いない。
私にとってはこれが苦しみの元に感じるが、
他の人にとってはどうだろうか。
きっとこの石は他者と共感し、つながる鍵なのだ。
そう考えたとき、石の手触りが少し変わった気がした。