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本を読むという習慣は何をもたらすのか

読書の可能性について

 本の出版数は年々減少の一途を辿っている、若者は読書をしない、活字文化の崩壊などと、昨今「読書」に対してマイナスの言葉が多く並んでいる。
 以前私が読んだ印象深い本の一つに齋藤孝さんの「読書力」がある。そこでは、「読書は筆者との濃密な対談である」と称されていた。読者との濃密な対談と言われると尻込みしがちではあるが、簡単に言えば難しい話だけが読書ではないと言える。すなわち読書は娯楽としての側面を持ちつつ、学修手段としての側面も持つのだ。
 このことからも、新たな知識を得るという点では、即報性が高いインターネットに軍配が上がるかもしれないが、情報の信頼性という点では依然としてほんや新聞に軍配が上がるであろう。
 では読書で得られること、得することは何が挙げられるだろうか。
 読書の大切さやそれに得られることなど、詳しいことは齋藤孝先生の「読書力」を参照してほしい。筆者個人の意見としては、読書によって「雑談力」の向上が望めること、そして「日頃意識しないことに対して意識を持つことができること」ではないかと考えられる。
 とは言っても筆者自身は雑談などは得意としていない。時々「面白い話をして/オチのある話をお願いします」などの無茶振りを受ける時があるが(そのくせ筆者は他人に振るときが多くある)、ほとんどは最終的に話の着陸に失敗する。見るに耐えない墜落である。トークサバイバーなら一発目で降板しているレベルであろう。
 私は読書によって得られるのはそのような「面白い雑談をする力」ではなく「読書による知見をもとにした幅広い内容(雑談)に対応できる力ではないか」と考えている。
 例えば、「辞書」についての知識をみなさんはいかほど持っているだろうか。
 我々の身近に「辞書」は存在しているのにも関わらず、それについての知識は、多くの人にとって持つことのないものである。
 そんな時、あなたのかつての読書の経験というものは大きく貢献するのだ。
 私の例をあげるなら「船を編む」という三浦しおんさんの作品である。
 この作品は、中型百科事典の『大渡海』の編纂作業に従事する人々の様子を新たに辞書編集部に配属された主人公の視点から描いている。
 辞書編集部の人々は若者言葉などを含む全ての言葉に対して敏感であった。編集者の中には、知らない言葉を逐一メモし記録していく。言葉は使われなくなると廃れ、辞書からも必然的に消去される。常に言葉と向き合う辞書編纂者にはまさに「言葉(船)を紡ぐ」という表現が似合うのだ。
 あくまで「辞書」と「船を編む」は例ではあるが、本の内容についての知見を深めること、日頃気にすることのないものに意識を向けることができることの二点は読書による大きな利点と言えるだろう。
 また齋藤孝さんは「自らの言葉で本の内容を要約できること」を本を理解したといえる状態であると「読書力」の中で主張していた。
 本の内容をもとにした雑談は、読書というインプットを経た上でのアウトプット(要約)作業の一部であり、これらは雑談を”する”上でも”聞く”上でも我々の大きな助けとなると言えるだろう。

緩い読書習慣を持ってみよう

 緩い読書の習慣を持つことは我々の日常に大きな変化をもたらす。
 例えば太宰治の「人間失格」で使用されている言葉には、非常に重厚性があるものが多い。ついつい人間とは印象深い言葉に対しては実際に使用したくなるものである。私も「人間失格」を読了した後は、「苦悩の壺」や「阿鼻叫喚」などをついつい使っていた。
 しかし言葉の引き出しを増やすことは、大人の会話においては必要不可欠なスキルと言えるだろう。語彙力は読書によって担われている面も多くある。
 読書習慣を持ちたいなと考えている人はぜひ一度本屋に足を伸ばし、1冊手にとって欲しい。手にとる本はあなたの興味や思考などに沿っても良いし、何なら自らの考えと相反する本でも良いのだ。ジャンルは問わない。
 それはあなたの人生に大小関わらず必ずや影響を与えるであろう。


参考文献 齋藤孝 「読書力」2002年 岩波新書

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