名作コラム・マッケン「パンの大神」 ~深淵を凝視する者は、また深淵からも凝視されている~
さて名作に関するコラム第二弾は、ワイルドと同時期で幻想文学やホラー文学の祖ともなった、アーサー・マッケンの中篇作品を取り上げたいと思います!
「パンの大神」(個人訳:http://www.asahi-net.or.jp/~yz8h-td/misc/ggpan10ja.html)、これは幻想文学やホラーファンだと比較的メジャーな作品ですが、一般の方は殆ど知名度がない作品だと思います。
が、その後の様々な文学――直系ならH.P.ラブクラフトやボルヘスと言った大作家、現在では「リング」「らせん」などのホラー作品、「エヴァンゲリオン」「ブギーポップは笑わない」と言ったアニメ作品にまで通じる要素を生み出した傑作です。
マッケンが当時は道徳や倫理を乱すという事で、酷評された作品ではあるのですが、そういった批判を踏まえても興味深い作品です!
今回は順番に、
1.技巧・構造論に関するコラム
2.記号や象徴論から見た作品像
と、この2方向から切り込んで行きたいと思います(・ω・)ノシ
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まずこの作品で特徴的なのが、二人の主人公、クラーク氏とヴィリヤーズ氏が様々な事件に遭遇していく中で、無関係と思われた数々の事件が一本の糸で繋がり、それが最後の恐怖へと繋がっていく、と言う点です。これは現在では「朦朧法」と呼ばれる文学の手法ですね。
今では一般的な「朦朧法」ですが、マッケンは非常に繊細にこの手段を扱っていまして、まず”恐怖の本体や真実が何かは、読者には間接的にしか伝えない”事に終始しています。
当然の事のようにも思えますが、物語を間延びさせずに恐怖の本体を隠すと言うのは至難の業で、マッケンはそれを”恐怖する人、犠牲者を出して間接的に表現する”、”様々なモチーフによって存在をほのめかす”この2つで乗り越えています。
これは面白い事に、読者のみならず、主人公の二人に対する情報にも、間接的な記録や伝聞などが用いられており、この手法は物語の最後まで継続されていきます。
これは読み手、つまり人間が「想像する生き物」である事を逆手に取った手法でありまして、簡単な方向付けや指標さえあれば、人間はそれから先を”想像で補おう”とします。
そこで事件に関わった女、女が犠牲者になにをしたのか?女の背後にある物は何か?という想像と恐怖を、物語の最後まで膨らませようとマッケンが張った罠の数々になっているのです。
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もう一つ、構造的に言えるのが”円環の物語”、”反復される物語”と言う点でしょう。
事件は時と場所を変えて、最初はイギリスの田舎で、次はロンドンで、さらに南米で、最後は再びロンドンで―と、時と場所を変えながら、繰り返し起きていきます。それは変死、女の影、冒瀆の痕跡と、円環構造を持ち、主人公の一人のクラーク氏がそれに真っ先に気付き、彼は物語の中から一旦退場します。
円環構造は世代をも越え、親の行為が結局子の世代に大きく受け継がれていた事も判明し、更にサチュロス、フォーン(いずれもパンと同等の半獣半神の好色な神)のモチーフも物語の端々に散りばれられております。このしつこい程の繰り返しと円環構造は全て最後の一言に掛かってくるのですが、その解説は記号論・象徴論の最後に纏める事にします。
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さて、記号や象徴的な話に移りたいと思います。
作品を最後まで読み終わると、なるほど、当時の文壇が批判した性的に道徳無視の表現、つまり魔女狩りにあった様な魔女や性魔術(サバト)の物語のようにも思えますが、私には単純にマッケンが性魔術を描いたとも、単なるエロティシズムでこう言った雰囲気が出せたとも思えません。
私が物語の中心人物ヘレンに感じるのは、巫女としての資質と、パン神の花嫁としての存在意義です。
まず犠牲者になった男性を見てみましょう。いずれもロンドンで学や地位、名誉のある人間か、著名な画家ばかりで、ヘレンと交わっても貧民窟や乞食達は犠牲となりません。ヘレンと”森の人”と邂逅したトレヴァー少年も、障害は負いますが命は長らえます。
つまり「堕落しておらず、神の花嫁の地位を脅かすものが犠牲となる」と、マッケンはギリシア神話やローマ神話の古典的なルールをちゃんと踏襲していると見る事が出来るのです。
唯一の女性の犠牲者、レイチェルはどうなのかと言うと、彼女は巫女~神の花嫁としての資質を持ってなかった、と言う事が出来ると思います。それは作中に登場するラテン語の記述でほのめかされており、更に、クラーク氏の最後の書簡――しかもマッケンが実際に博物館で見た碑文――でヘレン(とメアリ)の神の花嫁としての資質が裏付けられます。
マッケンはギリシア・ローマ神話やイギリス土着信仰を踏まえた上で魔女=古代の巫女、の存在を描いた作品であり、当時のキリスト教観念では殊更、背徳的に見えたのだと思います。
そしてマッケンの最後の魔法、
「この奇妙な話の残り、君が話してくれた他の部分や君の友人が発見した事は、ほとんど最後の章に至るまで、私が折々学んできた事だった。今、ヘレンは仲間達の所にいるよ… 」
この言葉はレイモンド氏がメアリ、ヘレンのみならず数多くの巫女を生み出した事を示唆していますが、
古代の碑文から連想するに、過去にレイモンド氏以外の誰かが、何千年にも渡って同じ様な巫女や犠牲者を出し続けていた事を、
あるいは未来にわたっても、同じ様な禁忌を国や世代を超えて犯し続ける人間が絶えないと言う事を、言葉の奥底に孕んでいるのではないか?・・・・・
こう言った無限に続く円環を、私は想像してしまうのです。
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今回付けた副題「深淵を凝視する者は、また深淵からも凝視されている」は、ニーチェの作品の中の言葉ですが、この「パンの大神」はその言葉を冠するのにぴったりな作品だと思います。
この作品と対になる作品として、必ず挙げておきたいのが
H.P.ラブクラフトの「ダニッチの怪」(ダンウィッチの怪)です。
この作品もまた神との婚礼をモチーフにした話で、この作品を愛好する脚本家の小中千昭氏が「リング」「らせん」などから続く日本のホラーブームの立役者の一人になりました(lain、デジモンの脚本でも有名な方ですが)。
では今宵はこのへんで(・ω・)ノシ
by 拓也 ◆mOrYeBoQbw(初出2013.05.22)
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