ルッキズムならぬ「ワーディズム」
私はセブンイレブンの弁当の「上げ底問題」について思う。ズバリ、これはセブン-イレブン・ジャパンという一企業だけの問題ではない。まずは、自公政権の(少なくとも半ば意図的であろう)悪政という問題があるし、さらにロシアのウクライナ侵攻なども含めた世界情勢の悪化も、どデカい問題だ。すなわち、セブン-イレブン・ジャパンという一企業「だけ」を非難するのは、「木を見て森を観ず」どころか「葉を見て木を観ず」ですらあるのだ。
それはさておき。
私は思う。松嶋尚美氏が「干物」を「ほしもの」と読むのは許せても、木村拓哉氏が「出汁」を「でじる」と読むのは許せないのはなぜだろうか? まあ、さすがに松嶋氏が「出汁」を「でじる」と読んだとしても腹が立つが。こりゃ、ルッキズムならぬ「ワーディズム(wordism)」か?
まあ、世の中にはすでに「言葉狩り」という造語があるので、私の造語「ワーディズム」は蛇足かもしれない。しかし、「言葉狩り」は「ルッキズム」とは釣り合わない。「ワーディズム」を「言葉狩り」と呼ぶなら、「ルッキズム」は「顔狩り」「体狩り」「服装狩り」などとでも言い換えれば良かろう。しかし、その「顔狩り」「体狩り」「服装狩り」などの総称として「ルッキズム」という造語があるのだ。それに、「体狩り」だなんて、ルッキズムよりもむしろ性犯罪を連想させる造語だ。
よくよく考えてみると、「ワーディズム」だと「言葉狩り」全般というよりはむしろ「単語狩り」かもしれない。人の言葉遣い全体に対する差別を示す造語としては、「ワーディズム」はまだまだ不十分である(すでに「トーンポリシング」という造語ならあるが)。結局は「ワーディズム」よりも「言葉狩り」の方が汎用性が高いのだ。やはり、私が造語職人を目指す道は難しいのだ。
私は自らの知性と言語に磨きをかけたい。私にとっては、「言葉」は武器でもあり、防具でもある。それゆえに、私は「言葉」を商売道具として真っ当に使う仕事に就いている人たちを尊敬する。逆に言えば、そのような仕事に就きつつも、その「言葉」を粗末にするような人たちを、私は軽蔑する。
私がブログ記事を書き、小説を書き、エッセイを書くのは、歌手が歌い、ダンサーが踊り、カメラマンが写真を撮るのと同じである。私は「シャロットの女」だ。私は「言葉」をスマートフォンという「機」で「織る」のだ。
私は他人に対する誹謗中傷としての「中二病/厨二病」「意識高い系」「造語症」という言葉が嫌いである。なぜなら、これらは他人の知性に対して敬意ではなく軽蔑を突き出すものだからである。無学無教養で語彙力が乏しい人間なんかに「造語症」呼ばわりなんてされたくないね。
(ただし、精神疾患の症状としての「言語新作」または「造語症」なる概念はあるらしい)
それはさておき、私は学校教育から古文や漢文を排除するのには反対である。なぜなら、これらは日本人の知性を育ててきたものであり、それらを排除するのは日本人に対する「愚民政策」だからである。それに、日本仏教のお経って、要するに「漢文」だからね。漢文の素養が全くないカルト教団の「信者(笑)」ごときに「折伏(笑)」なんてされたくないね。キリスト教で例えるなら、生まれて一度も聖書を読んだ事がないクリスチャンみたいじゃないか? たかがそんな「信者(笑)」ごときの言いなりになんかなりたくないね。私の母方の親族数名よ、あんたらの事だよ!
【F.R. David - Words】
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