「俺たち」のパラダイス ―監督:五社英雄『肉体の門』(1988年)―
私はこれから、女性が多数派・マジョリティーの世界観の長編小説を書く予定である。そのための資料として、色々な本を読んで参考資料にするのだが、映画も色々と観る必要がある。なぜなら、私がこれから書く予定の小説にはある程度のアクションシーンを描写する必要があるからであり、そのための参考資料として映画を観る必要があるのだ。
女性がマジョリティーの世界観の作品として、メディアミックス作品『ウマ娘』シリーズがあるが、これは「自称フェミニスト」たちの偏見とは裏腹に、意外とフェミニズム的な切り口で楽しめる余地があるものだ。アプリゲーム版『ウマ娘』は、男性プレイヤーが自身の分身としての主人公を男性に設定した場合は単なる「準ギャルゲー」に過ぎないが、女性プレイヤーが自身の分身として主人公を女性に設定した場合は「フェミゲー」に変貌する(これぞまさに「男と女で見えてる世界が違う」状況である)。このゲームは、主人公の分身としてのトレーナーを女性に設定してプレイしてこそ、意義があるものである。
当然、私がアプリゲーム版『ウマ娘』をプレイする最大の理由は、前述の通り「女性がマジョリティーの世界観の小説を書くための参考資料」とするためである。しかし、もちろんこれだけでは全然足りない。なぜなら、『ウマ娘』の世界観においては基本的に本物の「悪人」並びに「悪女」は存在しないゆえに、私がこれから書く小説の参考資料としてはまだまだ足りないからなのだ。
私がこれから紹介する映画とは、『ウマ娘』とは対極にある「闇のシスターフッド」を描いたものである。
戦後の小説家田村泰次郎の小説『肉体の門』は、これまでに5回映画化されているが、それらの中では五社英雄監督が1988年に制作した『肉体の門』が、現時点での最新作である(ただし、2008年にテレビドラマ化されている)。物語は戦後間もない昭和22年、焼け野原の東京都内が舞台であり、主人公の浅田せん率いる街娼たちは資金をためて〈パラダイス〉という名のダンスホールを開業するという夢を抱いている。
しかし、物語の序盤でせんの街娼集団に加わりたいと願い出た町子という女性が曲者である。一見、さえない堅気の女性のように見えたが、実はかなりの食わせものなのだ。さらに、せんたちの仲間としてすでに〈ベイビー〉なる女性がいるが、口で話せず手話で仲間たちと意思疎通している。一応聴力はあるが、普通の会話が出来ないので、一種の障害者である。
この街娼集団は他の街娼集団と対立しているが、さらに男性のヤクザたちやアメリカ軍兵士たちがからんでくる。そう、この物語の「女たち」にとっては基本的に「男」は敵である。しかし、せんたち街娼集団にたまたま命を救われた復員兵伊吹新太郎は、いわゆる紅一点ならぬ「緑一点」として、せんたちの集団の内部で、彼自身の思惑とは無関係に「サークルクラッシャー」という立場になってしまう。しかし、伊吹は決して「ハーレム」的な状況を楽しまない。
せんたちと対立関係にある別の街娼集団のリーダーである〈らくちょうのお澄〉こときたがわ澄子(注.ウィキペディアの『肉体の門』の記事を読む限りでは、彼女の苗字の漢字表記は不明である)は、ある場面を境にしてせんとの間に利害得失を超えた仲間意識が生まれるが、彼女は自分の母親と妹を辱めて殺害したアメリカ軍将校を仇として狙っていた。そんなせんと澄子のダンスホールでの踊りこそが、社会的階層が低い女性たちの「シスターフッド」を示している。『ウマ娘』の「上級女性」たちの「シスターフッド」が「光」ならば、『肉体の門』の街娼たちの「シスターフッド」は「闇」である。
そのせんは「俺」という一人称を使っているが、彼女は娼婦として「女を売っている」のとは裏腹に、その一人称や言葉遣いが示すように、心情的にはむしろ「女を捨てて」いたつもりだった。保守的・古典的なジェンダー観においては、いわゆる「女らしさ」は必需品として扱われるが、戦後の貧しい混乱期においてはわざとらしい「女らしさ」など一銭の得にもならない。ましてや、いわゆる「純潔」や「貞操観念」など子供のごっこ遊び以下の値打ちしかないのだ。
「『俺』たちが『まともな女』に戻れるのは〈パラダイス〉が出来た時だ!」
せんは言う。この物語は「男たち」が起こした戦争に対して怒る女たちの物語である。せんたち「女戦士」集団にとっては、〈パラダイス〉とは夢と希望の象徴である。私はそれで、あるツイッターユーザーさんの発言を思い出した。
《戦争は男が勝手にやってるからね。女は何もできません。女は戦争なんか絶対できない。笑えるほど組織力ないもん。女もいい加減何か気付けよ。国も法律も武器も男が勝手に作ってるんだよお前らの税金で》
そう、せんたちの街娼集団は、意見の対立ゆえに崩れかける。それは「緑一点」伊吹の存在だけが理由ではない。「笑えるほど組織力ない」女たちは、徐々に追い詰められていく。せんにとって自分の仲間たち以上に同志意識の対象だった澄子は、一旦は仇討ちに失敗するが、最終的には敵とは実質的に相討ち同然の最期を遂げる。
せんが最後に着るのは、本来ならば念願のダンスホール〈パラダイス〉開店祝いのために用意していた白いドレスである。それはウェディングドレスとしても着られるように選んだものでもあったが、同時に「死に装束」でもあった。そう、彼女が自らの天国を目指すためには、最終的に現世を捨てる必要があった。そして、せんたちのアジトにあった「ご本尊」こそが、せんにとっての「天国への階段」だった。
【Led Zeppelin - Stairway To Heaven】
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