当たり前を疑う
当たり前にはいろいろある
前回当たり前のことを当たり前にやることが大事ですという記事を書きました。
当たり前の意味は、広辞苑では「当然、そうあるべき、ごく普通であること」と書かれています。
当たり前は、江戸時代に当然を当前と書かれていたことから発しているとされます。
当たり前を英訳すると、of course nathural obvious(明らかな)などです。
当たり前をちゃんとやるのが一番|autonomy
当たり前のことを当たり前に行う大切さの「当たり前」は
人としての原理原則と言うか
挨拶をする、時間を守る、相手を思いやる、お礼を言う、間違ったことをしたらすぐ謝る・・・など
人としてなすべき基本的なこと
幼いころから教わってきたこと、小さい子供に教えることです。
また、社会に出て企業などの組織に属していくと
その組織で、当たり前とされていることに出くわします。
それは、その組織が大切にしていること、パーパス(存在意義)や行動基準などです。
これも大抵、人として大切なことが示されている場合が多いです。
人として大切ではないこと
一方、人として必ずしも大切ではないこと
あるいは
どうもおかしいと思いつつ、ある組織の中で、当然のように行われていること(自民党の寄付金問題・・・など)
過去からの慣習で、止めずに続けていること(派閥解消と言いながらいつまでも存在している派閥的集団、順送り人事・・・など)
これらは
「当たり前」を疑う必要のあるものです。
だいたいルールを守るというのが公約?(スローガン?)に掲げること自体子供の目から見てどうなのでしょう。
ルールを守りなさいと教えるべき大人が、そのルールすら守っていない。
ルールにもいろいろあるので、仮に時代に合わない合理的ではないルールであれば変えることが必要です。
古い体質で、今に合わない「当たり前」は変える。
当たり前を当たり前と思わない。
以前からやっているからという思考停止に陥らない。
日常の当たり前
日常で、私たちが「当たり前」と思っていることも
場所や環境が変われば当たり前ではなくなるという事実にも目を向ける必要があります。
普通に不自由なく食べ物を食べられる、水が飲める、住む場所に危険がないといったことが、日常でなくなる。
ウクライナの人たち、紛争地域にいる人たちは危険と隣り合わせです。
また健康でいることも、そうでないとき当たり前が当たり前ではなくなります。
コロナ禍で外出できないといった時期も当たり前ではなくなりました。
日常の当たり前が、非日常ではそうではなくなる。
当たり前に胡坐をかかない。
当たり前に感謝する。
だからこそ
人として当たり前のことをを当たり前にやることが大事です。
新しい発見には
また、新しいものを生み出すには
「当たり前」を疑うことが必要です。
ニュートンもなぜリンゴは木から落ちるのかと考えたことから万有引力の法則を発見しました。
リンゴが木から落ちるのは当たり前と思っていたら、新しい発見はありません。
新しいものは「当たり前を疑う」ことからはじまります。
人としての成長も、企業の成長もそれまで当たり前だと思っていることを疑うことからはじまります。
人としての原理原則の
「当たり前のことを当たり前にやる」ことと
それ以外の
当たり前を当たり前と思わない
「当たり前」を疑うことが大切です。
今日も最後まで読んでいただいて有難うございます。