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読書感想『刑の重さは何で決まるのか』

世間を騒がす事件が起きると、犯人に対してネット上では「死刑にしろ」「刑務所から出てくるな」という言葉で溢れます。
こういった言説は生産性がないし、よくそんなこと書けるなあと日々思っているんですが、かといって自分も妥当な刑罰とは何かがよくわかっていませんでした。
そんなときに見かけたのがこの本でした。


本の概要

『刑の重さは何で決まるのか』というタイトルのとおり、どのように刑を量定するのかを考える量刑論はもちろんのこと、そもそも刑罰の目的とは何なのか(刑罰は被害者感情を満足させるためのもの?)といったことや、受刑者に対する処遇の在り方などが幅広く論じられています。
この本を30分でも読めば、ネットに軽い気持ちで「死刑にしろ」などと書かなくなると思う。

感想

社会も量刑の参与者

一つ大きく勉強になったのは、量刑を考えるときには被告人・被害者の事情だけでなく、社会全体の事情も考慮されているということです。
もちろん、考慮されるときの比重はすべて均等というわけではないようですが、社会の処罰感情も量刑を左右する可能性があり、被告人・被害者・社会の相互作用の中で量刑が決まっていきます。
ここで疑問なのは、社会とは何かということです。ネット世論とリアル世論では乖離があるでしょうし、社会は様々な少数意見を包含しています。
この”社会”が具体的にどのように取り扱われているのかが気になるところです。

受刑者の処遇

最近『反省させると犯罪者になります』を読んだこともあり、処遇論についてはより関心を持って読みました。(『反省させると犯罪者になります』の読書感想はコチラ
処遇論とは、例えば受刑者相手なら、受刑者を改善更生させ再犯を防止するためにはどうすべきかを考える学問です。
今年の6月から拘禁刑が施行されると、受刑者の処遇は大きく「作業」と「指導」の2つになるようです。(具体的な内容は法務省が決めていくことでしょう)
社会の構成員の一人としては、再犯しないように更生して出所するような処遇をちゃんとしてもらいたいところです。『反省させると犯罪者になります』を読んだ限りでは、漫然と作業をさせて通り一遍の指導をしているだけで、受刑者が本心から心を入れ替えるようには思えません。
適切な処遇が行われていないから、社会も前科がある人を忌避してしまうのでは?

裁判官に責任はないの?

刑の量定において、前例を参照することは欠かせません。死刑に関しては永山基準がほぼ例外なく前例として適用されているようです(注1)。
前例を踏襲することはある程度重要ですが、その量刑で被告人が更生するのかを裁判官はもっと考えるべきでしょう。
例えば不同意性交等罪で被告人に懲役5年の判決を出したとして、その被告人が5年で再犯しない程度に更生するでしょうか? 裁判官は更生に一定程度の責任を負うべきではないでしょうか。責任が負えないのであれば、さらに刑期を延ばす判決を出すべきだと思いませんか?
司法にこのような要求をするのが無理筋なのかはわかりませんが、ある人が(同一の犯罪を)再犯をした場合は、前の裁判官が下した刑期では更生できなかったということでしょう。そのような判決を出した裁判官は、社会から批判(中傷ではない)を受けてもやむを得ないのではないでしょうか。
裁判官への理性的な批判は、「死刑にしろ」と書き込むよりはまだ生産性があるように思います。

書誌情報

高橋則夫(2024)『刑の重さは何で決まるのか』筑摩書房

(注1)
原田國夫(2013)『わが国の死刑適用基準について』慶応義塾大学法学研究会


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