
12月32日、ゆき【短編小説】
この作品は、生活に寄り添った物語をとどける文芸誌『文活』2022年1月号に寄稿されています。
二両きりの電車のホームで待ち合わせた里見さんは、長身を黒いロングコートに包み、ひらひらとわたしに向かって手を振っていた。
”天ノ里の神社へ行きませんか”
里見さんから初詣の誘いが入ったのはついさっき、年の瀬迫る12月31日の夜のことだ。店の電話にかかってきた、唐突かつ素朴な誘いに、わたしの心は大きく跳ねた。
ごぉぉぉぉん、と遠くから除夜の鐘が聞こえる。ちら、と携帯の画面に目を走らせると、今年も残すところあと数十分。
「こんばんは、聡美さん」
「こんばんは、里見さん」
今年最後の挨拶をして、車両に乗り込む。ドア近くの座席がちょうど二人分空いていたので、並んで座った。
里見さんは父の同級生で、両親の代からうちの喫茶店の常連だ。父亡き今も数日に一度店に来る。こんな風にふらりと二人で出かけることはあるけれど、里見さんからの誘いは本当に珍しいことだ。肩の触れる近さに、少しだけ緊張する。
ほどなく動き出した車窓を眺めながら、里見さんは目じりの皺を深めて、ほんの少し口の端を持ち上げている。いつも穏やかで表情の少ない里見さんが、窓際の席で珈琲を口に含んだ時によく見せる、機嫌のいい顔だ。
大学卒業後しばらくして両親を亡くしてから、残された喫茶店を切り盛りして数年。年越しを人と過ごすのは何時ぶりだろう。ーーしかも、長らくひそかに慕ってきた里見さんと。
ごぉん、ごぉぉぉぉん。遠くからの鐘と、電車がトンネルをいくつも抜けていく轟音が重なる。電車の揺れに合わせて、ふつふつと喜びが込み上げてくる。
逸る心で見つめた夜の車窓を、風花がひとひら、どこからともなく過ぎっていった。
❅ ❅ ❅
天ノ里には、柔らかな雪が舞っていた。
駅前の賑わいに抜けるとすぐに、薄暗い中に橙色の灯が点々と、夜の先まで続いているのが見えた。そこへ吸い寄せられるように歩く。小ぶりながらも立派な朱塗りの鳥居を越え、奥に続く参道へ足を踏み入れる。
「……もうすぐ、日が変わりますね」
「参道で、新年の挨拶をしますかね」
天ノ里にある神社は有名な神様を祀っているらしく、いつも参拝客が絶えないと聞いたことがある。地元の人はそんな混み合うところへは行かない。だからわたしも、長年この地に住んでいるけれど、わざわざ足を運んだ記憶はなかった。
人が多いだろうと思ったのに、参道にある店々は軒先に燈火を灯すだけで、皆々シャッターを閉ざして静まり返っている。駅前はあんなにざわめいていたのに、すれ違う人はほとんどいない。
参道を進めば進むほど、さらに静まり返っていくのを、わたしは不思議に思い始めた。雪が少しずつ、勢いを増していく。
「ここ、ほんとうに天ノ里……ですよね?」
ごぉぉん、ごぉぉぉん。さっきから、どれほどの時が過ぎて、いくつの鐘の音を聞いただろう。もう年を越え、鳴りやむ頃のはずだ。
少し慌てて携帯の画面を見て、仰天した。
デジタル画面には、12月32日、の文字。
「……明けて、ません」
「おや、そんなことが」
わたしが画面を見せると、里見さんは目を見開き、とても面白そうに笑った。
「本当に12月32日、なのでしょうか……」
「そういうことに、しておきましょうか」
「それだと、どこにも存在しない日、どこにも存在しない時間、どこにも存在しないわたしたち……ってことに、なりませんか」
「なりますね」
わたしは思わず参道を振り返った。灯がまばらだ。さっきまでこうだっただろうか。
どこかに迷い込んでしまった幼子のように、底のない怖さに総毛立っていると、里見さんがくるりと私を振り返り、幼子にするように手を伸ばしてくれた。
里見さんの手をぎゅっと握る。温かい。
「……帰れますかね」
「ほんの少し、どこかに迷い込んでしまっただけでしょう」
里見さんが静かに手を握り返してくれたので、落ち着いて、再び歩き出すことができた。
夢か現か戸惑うわたしに対して、あまりにも動じない里見さんは、この世の秘密を知り尽くした魔法使いなのだろうか。
「……わたしたちは夢を見てるんでしょうか」
「そうかもしれませんね」
雪はだんだん、激しくなってくる。
半歩前を往く肩に、降り積もる白。つないでいない方の手を伸ばしてそれを散らす。ここが仮に夢の中でも、雪は冷たく、里見さんは温かい。
「帰れなかったら、どうします?」
「どうしましょう。聡美さんは?」
「……別にいいです。一人きりの正月には飽きあきしていますし。里見さんは?」
「そうですね。その時は、その時ですかね」
里見さんの答えは淡々としていて、さらさらした雪みたいだ。
里見さんはいつもそうだ。時折店に来て、静かに珈琲を飲んでいる。不意に店が忙しくなると、里見さんはいつもテーブルにお代を置いて、雪が溶けるようにすっといなくなる。次いつ来るとも言わずに。
吹雪が、すべてを隠すように降りしきり、わたしたちは道を見失って立ち尽くす。ごぉぅぅん。ごぉごぉ、ごぅぅぅぅん。除夜の鐘の音は、今や雪の唸りのようにも聞こえる。
天から降るものの声なき声。この吹雪は、わたしの心の中の嵐なのかもしれない。鐘が鳴りやまないのは、さびしいわたしの、いつまでも里見さんにそばにいてほしい欲深さが、あまりにも過ぎるからかもしれない。
「……もし、これが夢なら、多少好きなことをしても、許されますか?」「……、いいんじゃないでしょうか」
「じゃあ、」
思い切って、里見さんの腕を引いた。
立ち止まって振り返る里見さんの、その腕に飛び込む。里見さんは黙って、わたしを受け止めた。触れ合う頬と頬が熱をもって紅潮し、そこに落ちる雪をじわりと溶かす。近いところで、白い呼気が混ざり合う。
夢ならば、言ってしまえる気がした。
「……ほんとうは、ずっと前から、こうしたかったんです」
里見さんを抱きしめる。里見さんは、幼子にするように私を撫でた。わたしは頑是なく首を振る。
けれど、抱き合う里見さんの肩の向こうに、微かに神社らしき影が透けているのにわたしは気づいた。そうだ、初詣。お参りしたら、参道を戻らなくては。
里見さんも道の先を見つけ、そして雪空を見上げた。ほんの少し、雲が切れてきている。
「お参り、しましょうか。ここがどこでも、今が32日でも」
「はい」
雪が少し薄らいで、参道の終わりを示す。ぼんやりと灯が見えた。赤い本鳥居をくぐり、境内を無言のままに進み、二礼二拍手一礼。音高く、里見さんと合わせた。
「聡美さんは、何をお願いしたんですか?」
「……秘密です。里見さんは?」
里見さんと一緒にいつまでもここにいさせてください。でも、元の世界にちゃんと返してください。神社にかけた願いを繰り返しながら、暗闇にまだ降る雪に向かって歩き出す。
「じゃあ、僕も秘密にしておきましょうか」
半歩先を往く表情は見えない。けれど、目じりの皺を少し深めて、ほんの少し口の端を持ち上げていたらいいなと思う。
百八つの鐘はまだ続いていた。わたしの相反する心を天秤にかけてでもいるかのように、その音はいつまでも雪夜に響いていた。
わたしたちは手をつないだまま歩き続けた。温かさと冷たさの間で揺れながら、しあわせとさびしさの輪郭を辿るように。
❅ ❅ ❅
どこをどう歩いたのか、よく覚えていない。
視界に駅が見えた時には、雪はもうほとんど止んでいだ。空には冴えた満月と、からっ風。
わたしたちを待っていたかのような電車に乗って、トンネルをいくつか抜ければ、そこはいつもの田舎町だった。わたしはそのことに、つないだままの指の先が溶けて消えなかったことに、心から安堵した。
「それじゃあ、また」
待ち合わせたホームに降りて、里見さんがわたしの指をゆっくりと離す。手と手の間にあった熱を、冷たい風が奪う。その寒さに身を震わせたとき、里見さんが天ノ里の方向を振り返りながら、目を細めた。
「12月32日の続きは、次に雪が降るまでとっておきましょうか」
「……そうですね」
わたしの頬にも、里見さんの頬にも、先ほどの夢幻を惜しむ微笑みが浮かんでいた。
「今年もよろしく、里見さん」
「今年もよろしく。聡美さん」
今年最初の挨拶を交わして、改札を出る。駅を出てから振り返ると、里見さんが、夜の向こうのホームからわたしに手を振っていた。何度も振り返って、手を振る。また逢う約束ができた、また触れあう約束ができた。そのことが、わたしの心だけでなく、指先までを温める。
見上げた空はもう白み始めている。いよいよ新しい年が始まる。足取り軽く、家路をたどる。わたしの12月32日が終わり、深い夜が明けていく。
もう一度雪を願うわたしの頬を、風花がひとひら、どこからともなく過ぎっていった。
❅ ❅ ❅
この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』2022年1月号に寄稿されています。今月号のテーマは「雪の日のぬくもり」。雪の寒さや冷たさのなかだからこそ感じられるあたたかさを、物語として作家が寄せています。小説は定期購読マガジン内で毎週投稿されます。投稿スケジュールの確認と、公開済み作品へのリンクは、以下のページからごらんください。
注記:本稿は、第28回ゆきのまち幻想文学賞入賞作品「12月32日、ゆき」を加筆修正したものです。
ここから先は

月刊文芸誌『文活』 | 生活には物語がみちている。
noteの小説家たちで、毎月小説を持ち寄ってつくる文芸誌です。生活のなかの一幕を小説にして、おとどけします。▼価格は390円。コーヒー1杯…
よろしければサポートお願いします。これから作る詩集、詩誌などの活動費に充てさせていただきます。