長編小説 「扉」33
巧の正体 二
この二ヶ月余り、私は就労をしていない。シェフが熱中症に見舞われた一件から、長年携わってきた飲食業に魅力を感じなくなっていた。
逮捕者は現在計九人。刑が確定しているのはうち四人だ。皆似たり寄ったりの実刑であるが、逮捕された下っ端それぞれとの民事裁判を予定している。
コンビニでハーゲンダッツを三つ買い、姉の御機嫌をとりに訪れたのは、正当な下心があってのことだ。
「サト姉、調子はどう。痛みは落ち着いている?」
「薬を飲んでいればねえ」
やはりふわふわしている。姉の好きな抹茶のハーゲンダッツを勧めながら話を進める。
「今、九人捕まっているんだよ。サト姉に話したのって何人目までだっけ。次々逮捕されてはいるんだけど、アルバイト感覚の下っ端ばかりだね。でも少しでも取り返せればと思って民事で争っているから、人数が多い分費用が馬鹿にならない」
「賠償金といってもいくらでもないんでしょ」
「やらないよりはマシ。少しでも戻ったらいいし、加害者が賠償するリスクがないっておかしいだろう」
「そうね、確かにその通り」
「だろ?」
ハーゲンダッツをスプーンでつつきながら、本題に入る。
「でね、サト姉に頼みがあるんだ。去年借りた分、毎月ちゃんと返しているだろう。これからもきちんと返すから、また貸してくれないかな」
咄嗟に姉の顔つきが変わった。
「無理。前にも言ったけど絶対無理」
「何でだよ、ちゃんと返しているだろ。返した分は枠が空いてるはずだよな」
「それでも駄目なの、倫の大学進学が窮地なの。とにかく無理です」
「無理無理って、こっちも無理なんだよ。弁護士への支払いがあるんだ。倫の進学は別問題だろう」
「関係あるわよ。詐欺事件のせいで、お父さんが倫の学資保険を解約しちゃったの。これからまとまったお金が必要なのに。だから無理無理無理」
激しく首を振る。ふわふわしていると思ったが、意外にしっかりしている。姉は、先日の父との一件を語った。
倫の保険は解約されてしまった。だが父は、塁と桜子の学資保険はそのまま支払い続けている。何故か。それは百合という他人が挟まっているからに相違ない。
つまり血を分けた家族への甘えが、他人に相当する父親がいない倫の保険解約に踏み切ってしまったのだろう。倫には同情するが、自分の子供達が安全だったことにホッとしている薄情な私がいた。今となっては、請求者が百合であったことが幸いしたのだろうと、考え直すに至る。
だが、ふとあの晩の「親権は百合ちゃんにあるから」という父の台詞がリフレインされて、一瞬総毛立ち目眩を覚えたが、頭を振って話題を戻した。
「倫には可哀想だけど、仕方ないじゃないか」
姉は顔を歪める。その顔が極めて煩わしい。追い討ちをかけるように、
「経済的に無理なら諦めるしかないだろう」と言ってしまった。
「他人事だと思って。倫は小さい頃から目標を見つけてここまでやってきたの。何でそんな酷い言い方をするの」
姉の顔がさらに煩わしく歪んだのを見て、私は一声ボリュームを上げた。
「貧乏なら働けばいいんだ。何で大学に行かなくちゃならないんだ。あいつだって気が付いているんじゃないのか、おまえが言う程何でも理解しているならな」
*
倫の機転
僕が玄関を開けた時、「やめてよ!」という母さんの声と共に男の怒声が聞こえた。僕はその声に聞き覚えがあった。靴を脱ぎ捨て勢いよく中に入ると、そこにはしゃがみ込んだ母さんと、狭い部屋の中を散らかして家探しする男の姿があった。
「アユ兄……」
僕は果敢にも母さんを背に立ちはだかった。丸腰だ。
「おまえ倫だな、知ってるぞ。アッタマ良いんだってなあ。おまえこの前、歩の部屋に入っただろう」
「アユ兄……じゃない?」
「オレは歩の昔からの友人だ。三尋木巧だよ、賢い倫君」
「タクミ! アユ兄じゃないの?」
僕は混乱しつつも冷静を死守しようとしていた。
「タ……巧さんは母と知り合いなんですか」
「オレの方は知っていたよ。だけどまあ、紹介されたことはないな」
「アユ……歩さんはどこですか」
「さあね」
「巧さんは、母に何の用で来たのですか」
「急を要する大人の話だ。親友の歩を助けてやりたいんだよ」
「母は療養中なんです。体調の良い時では駄目ですか」
「急を要するって言っただろ」
「では、歩さんをここに連れてきてもらえますか、歩さんも一緒に話しましょう」
「チッ! 生意気な子供だ。理実さん、あなたお姉さんでしょ。可愛い弟の歩に協力してやって下さいよ。あいつ今物凄くキツイんだ。オレの大事な相棒なんだ、頼みますよ」
タクミは僕に向き直り、
「そうだ、賢い倫君。桜子と仲が良過ぎるって歩が妬いているみたいだぞ。あいつ馬鹿みたいに娘にメロメロだからな」
そう言って僕の頭を掴むように手を置くと、左の頬だけで笑顔を作り、
「じゃあな、賢い倫君、頼りにしているよ。では理実さん、よろしくお願いします、また来ますから」
左頬の笑顔のままタクミは出て行った。
「大丈夫? 怪我ない?」
母さんの両肩に手を添えて、その蒼白な顔を覗き込んだ。部屋は引出しや鞄や小物入れがひっくり返って、散らかるだけ散らかっていた。テーブルの上にあった電動鉛筆削りが投げつけられたようで、削りカスが飛び散り、母さんの頭上の襖が陥没していた。
僕はたった今目の前で繰り広げられていた事実を、冷静に捉えようと努力した。そして、優先されるべきはじいちゃんの安全だと結論を出した。
「じいちゃんが心配だよ。すぐに連絡をしよう」
三尋木巧という人格が僕達のアパートに出現したことと、彼がこれからじいちゃんの前に姿を現わすかもしれない危惧を伝え、一時的でも避難した方が良いとじいちゃんに短く進言した。
「タクミが……そうか、ありがとう」
掠れた声でじいちゃんは弱々しく答えた。
母さん、あれはアユ兄だ。三尋木巧というアユ兄のもう一人の人格だよ。多分じいちゃんの前にも何度も現れていると思う。信じられないことだけど、これで夏にじいちゃんに起こった不可解な出来事に説明がつく。矛盾がないんだ。
じいちゃんは黙っていろと言ったけど、僕の目の前で起こった以上、その必要はなくなった。じいちゃんは前から知っていたんだよ、アユ兄がタクミだって。庇っているのか隠そうとしているのか、それはまだわからないけれど、その事実をずっと黙って一人で抱えていたんだよ。
僕があの夜に体験した不可解な出来事、あれは何かがきっかけでアユ兄が一瞬タクミと入れ替わったんだ。おそらくほんの数分間。タクミがじいちゃんに何かをした。その時怒号がしたり額が壊れたりしたんだ。その場でアユ兄に戻りシャワーを浴びたのか、シャワーを浴びている間にアユ兄に戻ったのか、この際どちらでもいい。つまり、タクミという実体があるわけがなかったんだ。
母さん、この部屋ってタクミになったアユ兄が散らかしたんでしょう。突然口調が変わったりしたんじゃないかな。これからはいつでも戸締りをしっかりして、すぐに鍵を開けては駄目だよ。訪ねて来るアユ兄はタクミかも知れないのだからね。僕にとっては優しいアユ兄だけど、タクミは他人だ、僕の叔父じゃない。母さん、絶対に油断して扉を開けないでね。
それから、じいちゃんをここに呼ぼうよ。何か解決策が見つかるまでは。
僕は母さんに僕の見解をそう示した。
「……知ってた」
「え?」
「知ってたのよ、倫。でも怖くて誰にも言えなかった」
母さんの告白に僕の方が驚いた。
GW明け、アユ兄から片付けを急かされていた母さんは、私物を整理するためにじいちゃんの家に居た。アユ兄からすればガラクタ同然の母さんの私物は、塁の同居の妨げでしかなかった。じいちゃんは書道教室で外出していて、家にはアユ兄と二人きりだった。
鼻歌を歌いながら片付けをスタートしたが、学生の頃描いた真面目な油画を始め、子供の頃の絵日記や絵本の山、両親に愛されて記録された大量のアルバムなどが次々発掘され、感傷に押され遅々として片付けが進まない。「見て見て、これ懐かしいよね」とか「小っちゃいアユ坊可愛かったんだから」とか「これ探してたの、ここにあったんだ」とか。極め付け「全然棄てられないよ、みんな大切な物だもの」
その時だった。
「うるせえ!」
怒号とともに、じいちゃん愛用の硯が母さん目掛けて飛んで来たのだ。書展で中国に渡った時に一目惚れして購入した、じいちゃんの大切な硯だったという。
少年野球のエースだったアユ兄の豪速球のコントロールは、スレスレの所で母さんをかわし、壁に無残な穴を開けた。当たったら一溜まりもなかっただろう。
「おまえ、今何しに来てるんだよ、きゃあきゃあうるさいんだよ! とっととおまえの物を棄てろよ!」
アユ兄の怒号は、最早アユ兄のものではなかった。似て非なるもの。
「アユ……どうしたの? 怖い」
「うるせえ! オレは三尋木巧だ。理実さん、あんたお姉さんでしょ。歩に協力してやりなよ、とっとと部屋を開けろよ!」
ミヒロギタクミって誰? 恐怖と理解不能に見舞われた母さんは、持って来た鞄だけ手にするとそこから脱出した。
それ以来、じいちゃんの家に足は遠のいていたし、その出来事が理解出来なくて、自分が変になったのかと誰にも言えずにいたというのだった。母さんの病状再発の大きな要因であることは間違いない。
これでタクミの正体を、僕と母さんで共有出来た。後はじいちゃんから真相を聞き出し、じいちゃんとも共有し、じいちゃんを危険な目に合わせない。その上で、アユ兄自身が解離性同一性障害であることを認知しているのか確かめる必要がある。
少し怖いし、受ける訳ないだろうけど、できればカウンセリングも勧めてみたい。僕はパズルを嵌め込むように、一つ一つの事象を検証することにした。これは詐欺事件とは別の問題だ。
つづく
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