長編小説 「扉」35
父娘の洗濯
十月も後半に入っていた。我が愛息は志望校を決めたであろうか。家の片付けはまだ途中だが、来春が待ち遠しい。
倫の学資保険が幻となった後、姉は安定剤を服用しているとは思えぬしっかり振りで、自治体や進学塾の耳寄りな情報をママ友から得、その問題を少しでも克服しようとしているようだ。見かけに反して、抜け目のない姉である。ということは、私もまだ諦めるには早いということだ。
田沼弁護士には、弁護料の払込期限を十月末迄に延期してもらっているが、戦いがまだまだ続く中で弁護料未納になれば、この先依頼し辛くなってしまう。ところが、姉に再度協力要請しようにも、最近姉はいつも留守である。電話も出ないしメールの返信も圧倒的に遅い。理由は分からぬが、いずれにしても姉に連絡がつかないのは非常に痛かった。
父はといえば、最近意味不明な怪我をしている。気を付けて欲しいものだ。結局姉に連絡が取れぬまま、父の書道教室の収入と年金から弁護料を絞り出した。
姉の繰り返す不在に腹を立て、気分転換にパチンコ屋に足を運んだが、あの異世界のような不可思議でショッキングな出来事以来、巧には会っていない。三日三晩眠り続けた結果、全て電車の中で見た夢だったと無理矢理腑に落ちさせた。自分が感じている以上に心身共に疲労しているに違いない。だからと言って、あの港町のアパートを訪れて確かめる勇気は、勇敢な私と言えども持ち合わせてはいなかった。
*
父の笑顔
床屋に出掛けようとした時、診察を終えたという理実から、メールを受信した。
ーお父さん、変わったことないですか。今病院です。歩がいなければ帰りに寄ろうかしら
ー歩は出掛けている。今から床屋に行くが、うちに来るなら迎えに行くよ。床屋は三十分もかからないだろうから
昨夜、いい加減髪を切れと歩から二千円を渡されたのだ。病院の会計は予想外の混み具合で、迎えに行った時は、理実はまだ薬局のロビーで燻っていた。隣接するファミレスで待つことにしたが、「随分と洒落たことをするじゃないか、床屋代の二千円しか手渡していないはずだが」という歩の幻聴がして、胸に違和感を感じた。
混み合う薬局を解放され、ファミレスに理実が入店したのは、実に四十分近く待ってからだった。さっぱりして小さくなった頭の俺を見つけ、
「ごめんね、待たせてしまって。凄い混んでたの。頭、随分スッキリしたね」と笑う。
「待つのは平気だよ。何か食べろよ、昼を大分過ぎている」
「そうだね、たまにはいいね」
俺が自由になる金を持ち合わせないことを知っている理実が、自分の財布を確認している。
「好きなもの頼めよ」俺は笑顔で言う。
「理実が去年お膳立てしてくれてから、本屋に置いている小さい書。相変わらずたまに売れているんだよ。だからほら」
そう言ってポケットから千円札を数枚取り出し、笑顔で理実に見せる。
「それはお父さんが大事に持っていた方が……」
「俺が持っていても、どうせ歩行きの金だ。だからこれで食べちゃおう」
さりげなく歩を揶揄しつつ、笑顔で理実に注文を促す。気付くと、朱実とよく似た理実の垂れ目に、ふやけるのではないかと思える程、涙が溜まっていた。どうしたんだ。
「お父さん、お母さんの分も長生きしてね」
そんな目でそんなことを言われて、俺にどんな顔をしろと言うのか。子供の頃から俺にばかり反発をしていたと同時に、良き話相手に成長していた理実に、俺は照れ臭くて視線を合わせられず、やはり笑顔のまま黙っていた。
「来年は予定通り喜寿展が開けるように、お金のかからない方法を探し出そう。だから新作を作り続けて!」
歩の話など一切出なかったし、倫の保険消滅の恨みも話題にならず、ランチのコーヒーをお互い二度程お替わりをして店を出た。
GW明け以来、理実が一度しか訪れていなかった書道部屋は、長机がたたまれ、塁のためのベッドが部屋の視界を遮る。隅に追いやられた狭い机上に、添削用の朱墨と文鎮だけが乗っている。紐で括った書道関係の多くの書物、嵐山書道会の長年の会報や作品集も含まれている。自治体指定ゴミ袋に無造作に突っ込んだ大量の画仙紙や筆。重ねた硯。
硯。
突然、理実が声を震わせた。
「硯……硯が飛んで来たの。あの日、硯が飛んで来たのよ!」
硯……、理実の脳裏にタクミの豪速球もとい豪速硯が蘇り、それを避けるかのように頭を抱えながら目の前の理実が咄嗟にしゃがみ込んだのだ。
「お父さんの硯を、歩が私目掛けて投げつけたのよ。ミヒロギタクミって名乗ってた」
「……そうか、理実の前にも現れていたのか。怖かったろう」
物置もとい収納部屋になっている理実の部屋で、五月にタクミが陥没させた壁と、真っ二つに割れた俺の大切な硯を確認した。どれほど豪速だったかが読み取れ震撼する。
俺は数ヶ月前から行方知れずだった愛用の割れた硯を拾い上げ、
「でも理実が怪我をしなくて良かったよ」
笑顔を作ろうとして失敗した。
足元には理実が逃げ帰ったままの、開きっ放しのアルバムも放置されていた。庭で線香花火に興じる幼い姉弟、テラスでスイカを頬張る二人の子とそれを見守る母親。朱実が一時退院していたある夏の記録だ。撮影者は勿論俺、遠い記憶だ。アルバムを閉じながら理実が聞く。
「お父さん、タクミのこと知っていたの?」
「ああ、ずっと前からな」
「何で教えてくれなかったの」
「朱実がいなくなって、歩は制御がきかなくなった。それまでも歩が暴れることは何度もあったんだが、三尋木巧と名乗り出したのは朱実がいなくなってからだ」
「どんな時にタクミが現れるの」
「琴線に触れて頭に血が上った時や、金の無心が通らない時だ。歩がここに出戻る前など、あいつが来ると恐ろしくて。歩なのかタクミなのかって。本当に俺はあいつの父親なのかと震え上がったよ」
「何でそんなにお金が必要だったのかしら」
「借金だよ。潰れかけた店を譲られ背負った負債を、俺の退職金で肩代わりした。その後も事ある度に借りに来る。返せる見込みがなくてもな。底尽きた俺が断るようになると、やがてタクミが現れたんだ。怖くて震え上がった。だから、町子姉さんや中里さんに再三借りたり、俺のクレジットカードで延々とキャッシングを続け、延々と今も俺が返し続けているんだよ。それに百合の母親の蜜子さんにも借金があって、返せない歩の代わりに俺が毎月返済の送金をしているんだよ」
「息子の不始末は嘘じゃなかったってことだね。そもそも歩は何でそんなに借金をしているの」
「パチンコと先物取引、それと見栄っ張りのええかっこしいだよ。外ではやたらに気前が良い」
「え? 先物取引ってお父さんがしていたんじゃ……」
「違うんだよ。歩、いやタクミの仕業なんだ」
「何で言わないの、私ずっとお父さんが嘘吐いてるんだと思ってた」
「言えないだろう。もしあの時そんなことを口に出して、理実の前でタクミが現れたら困ると思ったんだよ」
「お父さん、私を庇ってくれたの。ごめんなさい、酷いことばかり言って」
「いいんだよ。そもそも俺が詐欺に引っかかったのがいけないのだから。歩の借金返済で俺も切羽詰まっていたんだ、だから馬鹿げた甘い口車に乗せられた。馬鹿なのは俺なんだよ」
「でも……」
「怖かったんだ。父親ならあいつにブレーキをかけさせなければいけなかったのに、恐ろしくて言いなりになってしまった。意気地のない父親だったんだよ。朱実に怒られちゃうな」
理実の朱実譲りの垂れ目が再びふやけ始め、鼻が赤くなっていた。
「だから、理実や倫に何もしてやれなかった」
「私、ずっとヤキモチ……ううん、もっとドス黒い感情を持っていたの。何で歩ばかりって」
「俺が父親らしくどっしり構えていれば、こんなことにはならなかったんだ。倫は優しい子だ。朱実の受け売りだが、しっかり育てろよ。倫の保険はなくなったが、俺の生命保険は生きている。少ないが、いつか何かの時に役に立つように、受取人は理実にしてある」
理実の目と鼻は既に塩辛い液状になっていた。歩の居ぬ間の父娘の洗濯とでも言おうか、娘との絆を結び直せるかも知れない儚い期待に、俺はやはり笑顔だった。
つづく
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