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長編小説 「扉」44(完)



      歩の誰そ彼時



 頑張った。だが一年持たなかった。ついに我が家を手放す時が来てしまったのである。
 倫の寮生活により一人暮らしとなっていた姉を、二ヶ月程前に訪ねたが、既に姉は職場も住処をも変えていた。町子と保行の職場への電話攻撃から逃げたのであろうか。それにしても、私に黙って逃げるなんて酷いではないか。
 幼き頃は私を泣かすまで滅茶苦茶に可愛がり、成長とともにディープな喧嘩を繰り返し、それでも自然と仲直り出来たではないか。長きに渡るこの大騒動で生じた最悪の亀裂。閉じることは難しいと諦めていたものの、血を分け一緒に育ってきた姉弟。一抹の望みは捨てないでいたのだ。私は理実の可愛い実の弟ではないか。それなのに姉は私を見捨てて逃げたのである。卑怯千万、冷酷非道! 絶望的怒りのやり場は何処にもない。怒ったところでどうにもならないのだ。
 そして私は観念した。最早返済能力を遥かに超える金額に、紳士であったはずの私の身も心も、父にも勝るとも劣らない変貌振りであった。
 部屋と呼ぶには余りに痛ましい汚い自室の隅に、干からびて丸まった蜘蛛の死骸を見つけた。垂らす糸など最初からなかったように、八本の脚を縮こまらせ果てている。憐れみも憎しみもなくそのまま放置した。まるで今の私だ。フリーズドライの古根であった父の方がまだましである。父不在のこの家は見る見るうちに生気を失っていったのだ。

 家を出る日、偶然にも遠い昔に幼馴染であった良輔の母親に声をかけられた。墓参りでこちらに来ていたようだ。父の一周忌もままならずに過ぎていった初冬のことである。
「歩君ごめんね、おばちゃん全然知らなかったの」
 彼女は母の友人で、清く穏やかで少々おっちょこちょいな所が、我が母と雰囲気が似ていた。息子の良輔が私と同年の縁で幼馴染となったのだったが、彼は小学校に上がることなく事故で他界したのだった。
「良輔のおばちゃん! 僕、負けちゃったんだ」
 長年会っていなかったにもかかわらず、懐かしいその優しい顔を見て、あっという間に子供の頃の口調に戻ってしまう。そして不覚にも泣き出した私に、彼女も嘘のない涙を返してくれた。私の為に涙を流してくれる人がまだ在ったのだと思えるだけで、穴の空いた心臓が熱くなった。
「家を離れる前に、おばちゃんに会えただけでも良かったです。良輔にもよろしく」
 私は最後の虚勢を張って、元気に振る舞い笑顔で別れ、心の中で良輔に手を合わせた。


 この脱力感は何だろう。息く間もなくアグレッシブだったこの二年半が、私の全人生であったかのように、もう何も考えられないし何も思いつかない。
 不本意にも仕方なく手に入れたオンボロ軽自動車で、海沿いのパーキングエリアに無意識に向かう。エンジンを切り、海岸に続く急な階段を降りて初冬の穏やかな海を見ていると、自分が誰なのか分からなくなって来る。もう桜の樹の下だなんて贅沢は言わない。今ここで海の藻屑になっても、哀しむ者もなければ探す者もないだろう。
 冬の黄昏時、空は群青に染まり終える。突然冷え込んで、薄いカーディガンを羽織っているだけの私は我に返った。家から持ち出した物は、桜子が父に編んだ深緑色のマフラーと父の筆数本と硯一面、それと一枚の母の写真、そして父の全紙の掛軸一幅だけであった。
 収集したワインを含め、売れる物は全て売った。ソムリエ教本は置き去りにした。姉の大切な写真アルバムも創作物も画材も全てガラクタとして、姉の知らぬ間に家と共に破壊されるのだ。因果応報、ざまあみろである。私を見捨てた報いである。
「中嶋歩なんか死んじまえー!」
 心臓が痛む程大きく息を吸って、声に出し叫んでみた。砂浜に犬の散歩がいたことに気付き恥ずかしくなる。社会の中で生きている人間の当然の感情が、未だ残っていた意識の矛盾に一人赤面する。孤独な私には、もう必要のない感情のはずなのに。
 暗い砂浜に人影を確認する。誰? 
「よお」
 巧が居た。「誰そ彼時たそがれどき」とはよく言ったものだ。
「巧! 何だよ、一年も姿を見せないで。心配してたんだぞ、それに……それに相談したいことも山程あったのに、今更もう遅いよ」
「分かってるよ、おまえ頑張ったじゃん。後はおまえのペースでやればいいんだよ」
「何もかも失って、もう無理だよ。海に消えたいよ」
「焦るなって。何もないということは執着がなくなるってことさ。先ずは住処だ。それからゆっくり責任を果たすさ。おまえも一人だ、この際一緒に住もう」
 躊躇しながらも巧の提案を受け入れ、時を超えて私はあの部屋に再び入居したのである。


       終 



 オレは三尋木巧、一介の取るに足らない成年男子である。
 両親の顔など記憶にない。唯一の祖母に育てられた心寂しきオレは、人を信用しない半端者である。そんなオレでも助けたい奴が一人だけいる。幼い頃から不器用な正義感に苛まれ、その為現在に至るまで人生が真っ直ぐに進んだことがない、中嶋歩というオレ以上に心寂しき男である。
 ずっと以前から、オレはオレと境遇の似た歩を見守ってきた。人を信じ過ぎる純粋さやすぐに甘える弱さ。そのくせ他人には大見栄を張る。そんな中途半端な歩を補い、尻を叩いて積極的助け舟を出すのは、オレの役目であった。
 他人の不運に進んで足を踏み入れ、同情する余り貧乏くじを引く。納得出来ない理不尽さを感じると、手前味噌の正義感が顔を出し、後先考えずに他人を助けるつもりが自滅する。感謝もされないどころか、割に合わない不毛なその結果にいとまがない。そんな自己満足からの自暴自棄を繰り返しながら、大人になってしまったのだ。    
 このような相棒を放っておける訳もなく、オレは歩の影となった。
 表面張力に堪えられずに水が溢れ出すように、オレは歩の前に姿を現し、闇の声を吐き出してきたのである。
 それまで影だったオレが歩の眼前に姿を現す決定的なきっかけになった場所。それが、歩とオレが過ごしているこの部屋なのだ。歩を裏切り続けた麻耶という丸顔が可愛い女の呪縛から、ついに逃れ切れなかった歩がリスタート出来る、たった一つの場所なのだ。
 殺風景なこの部屋にそぐわない、親父さんの全紙の掛け軸「扉」が、染みのある壁を覆うように下がっている。

 歩は相変わらず、毎夜巨大倉庫行きのシャトルバスに乗り込み、巨大倉庫のカートを押しに出掛ける。ソムリエへの道には見向きもしなくなっていた。そして意外なことに、最近は嵐山貴教の意向で、昼間書道教室で生徒に習字を教えたり、請負った賞状書きをしている。
 今年の春、故嵐山順景の夫人が亡くなった。貴教率いるニュー嵐山書道会からは、順景の意志を継いで創作活動をしていたメンバーが徐々に離れていった。それでもネームバリューが幸いし、新入会者は少なからずいたようで、一部の書道教室は存続していた。
 会の主力メンバーを失った貴教の要望により、借金返済が遅々として進まない歩が、子供や主婦達に書道を教えることになったのだ。
 あの大事故の末、心身傷だらけの歩は、親父さん仕込みの書道で妙な才能を順景から認められた。二十歳そこそこの青年が、あっという間に師範クラスに上り詰めたのも束の間、筆を親父さんに投げつけた本人にとっては、すっかり忘れていたスキルであった。よもやここでその恩恵にあずかるとは、親父さんの不本意な蜘蛛の糸なのかもしれない。
 歩の人当たりの良さと紳士的な話術を高く買っていた貴教は、順景の書をラベルにした、地元の酒や水の営業も、歩に任せ始めていた。オレが心配なのは、借金の負い目があるとはいえ、どこまで歩がこの状況に堪忍袋の緒を切らずにいられるか、という大きな危険をはらんでいることだ。
 親父さんの三回忌も、一周忌同様ままならず通り過ぎていった。そんな不安定な生活の中、逮捕者は通算十三名に上っていた。民事裁判で決定した賠償金は思うようには手元に届かず、裁判費用だけが嵩み、疲れ果てている歩は見るに堪えない。
「もういいだろう、やめておけよ。目の前の生活の方が大事だ」
 被告への制裁としての賠償金に固執する歩に、何度進言したことか。
 オレはいつでも歩の味方のつもりだった。いつでも助ける準備は出来ていた。歩を早く楽にしてやりたくて、悪知恵を耳打ちし、自らは暴力的行為を買って出たんだ。だが、それは歩の孤独を強めただけだった。オレが暴れたところで、失った人や起きたことが元に戻る訳ではない。むしろ遠ざかっていった。オレが言うのも何だが、今こそ三尋木巧という怪物を生み出してしまったこの場所から、歩に勇気を持って人生を歩み直して欲しい。
 親の顔も愛も知らない孤独なオレが、もっと孤独な歩を愛さなければならなかったのだ。歩に自分自身を愛することを伝えなければならなかったのだ。
 孤独はオレが全部引き受けるから、オレが消滅してでも歩には孤独なんて捨てて欲しいのだ。オレの自己犠牲の自己満足かもしれないが、オレは歩のように自暴自棄にはならない。
 その時が来るまで、オレは愛すべき歩と入れ替わることがあっても、歩の前には姿を現さないだろう。

 歩はようやく以前程は賠償金に興味を示さなくなっていた。毎夜カートを押し、日中は親父さんの筆を持ち、帰宅して真っ白な猫と戯れる。これが今の歩の姿だ。
 オレが姿を現したのは、親父さんと理実に対してであったこと。麻耶や百合の前には決して現れなかったこと。歩はこの事実に気付き始めているはずだ。親父さんが、理実や倫の保険を解約したのに、塁と桜子のそれは解約出来なかった心境と似ている。おまえたち父子は、本当によく似ている。
 山神氏や町子への返済は、まだ続いている。
 子供等への送金も始めていたが、あれから会うことは未だない。その喪失感から逃れるためか、近頃では仕事をしている時以外は、オレにバトンタッチをすることが多くなった。そこでこのオレ、三尋木巧が歩の新しい道を求めて、歩の気が済むまで街中をうろうろと彷徨う。見落としそうな小さな扉の隙間から漏れでた明かりが見つかるまで。
 そろそろ片割れ時かたわれどきだ。オレの半身、歩の帰宅時間だ。不揃いな編み目の深緑色のマフラーの上で呑気に眠っている「マヤ」と名付けた白い愛猫には、今度は鈴の付いた赤い首輪がしっかりと巻かれている。
 さあ、夜が明ける。扉の隙間からオレと歩が入れ替わる彼は誰れ時かはたれどきだ。






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