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長編小説 「扉」34


      巧の正体 三



 赤い愛車は海沿いの有料道路を走っていた。姉に弁護士費用の立替を頼んだが良い返事がもらえず、すごすごと引き下がったモヤモヤ感が半端ない。支払いは一週間後なのだ。
 父が倫の保険を解約してしまったことについては、姉の気持ちも分からぬでもない。だが、物理的に無理なことを進めようとしている姉も問題ではないか。自分のエゴで選んだシングルマザーの人生。にもかかわらず、倫に疑わせることなく進学まっしぐらの道へ導いている。姉自身が入学早々、母の難病のため大学を辞めなくてはならなかったその不毛さを、おそらく息子にまで味わわせたくないのだろうが。
 姉には申し訳ないが、塁と桜子の保険が無事であったことは胸を撫で下ろすに価する。
 人気ひとけの少ないパーキングエリアに停車し、自販機の缶コーヒーのボタンを押す。目の前に広がる真っ黒な海と定期的な波の音。心音と似ている。もっとも私の心音は不定期であるが。遠くにイカ釣り船であろうか、ポツリと明かりが灯っている。コーヒーに口をつけるのも忘れて、ジッとその明かりを見つめていると、幼き頃よく押入れに入って遊んでいたことを思い出した。
 父の将棋盤や釣り道具が入っている真っ暗な押入れの中には、幼き私と姉が入り込めるスペースが十分にあり、手作りの豆電球点灯装置を手に、祖母から隠れるという遊びを楽しんでいた。
 祖母が「アユちゃーん、サトちゃーん」と言って探し回るのを、二人で笑いをこらえながらジッと押入れで息を殺しているのである。豆電球が暗闇の道標みちしるべのように、小さく点灯していた。
 学年が上がるにつれ、姉は友人との遊びが中心になり、私は徐々に置いてきぼりにされた。そんな私の前に現れたのは、コウちゃん・・・・・という同世代で色白の少年であった。姉と入れ替わるように押入れの中で、戦隊モノの人形やゲーム機で遊んでいた記憶がある。小学三年生になる頃、私は少年野球のチームに所属した。コウちゃんとはいつの間にか遊ばなくなり、いつしか彼の存在を忘れてしまっていた。コウちゃんは元気にしているのだろうか。
 何だか家に帰る気がしなくて、私は波の音の聴こえるパーキングエリアで愛車のシートを倒し、一晩を明かした。


 その日、五人目の逮捕者の自宅追跡を終えた私は、JR下り列車に揺られていた。十月の風は乾燥し始めている。いい加減疲れた。心情とは裏腹の心地良いリズムの振動に睡魔が襲って来る。
 母が泣いている夢を見た。昏睡状態から私が目覚めた時に見せた、あの泣き顔だ。目と鼻を赤くして「生きる理由がある」と声なく繰り返す。血小板が破壊され続ける難病を背負いながら、私という愛する息子の生還を信じていたあの泣き顔だ。
 その母の肩越しに覗く忘れ得ぬ丸い顔。アパートの扉が開けられないと文句を言いながら、麻耶がこちらに鍵を投げつける。咄嗟にキャッチしようとしたところ、ガッタタンという大きな揺れで目を覚ました。停止信号のようだ。風の悪戯か人為的悪戯か、異物が線路上に確認され、私の乗る車両はトンネルの中で十五分程の停車を余儀なくされた。
 外は昼間だというのに、真っ暗なトンネルの中は音も遮断され別世界である。車両内だけがやけに眩しい。「生きている理由があるのよ」と耳元で声がしたと思うと、真正面の窓に少し髪が伸びた私と愛する母が映っていた。焦って横に目をやっても母がいる訳がなく、私もいよいよ限界だな、疲れがピークに達しているようだ。先程の夢の影響だと気を取り直した頃、列車が再び動き始めた。
 降車駅の一つ手前の駅で、驚くべきことに巧が乗って来た。声をかける。
「おい、巧じゃないか、偶然だな」
 疲れていた私は、巧に会えた喜びを隠さなかった。
「珍しいな歩、おまえが電車なんて」
「今日は五人目の被疑者の家周辺を探って来たんだよ。そいつの家マンションでさ、マップで検索したら駅のすぐ近くなんだよ。車だと動きにくいだろう」
「電車嫌いのおまえも仕方なくってことか。でも、一人一人家を探っているのも馬鹿げてないか、疲れるだろう」
「物凄く疲れる、不毛だし。でも性分なんだ。意味がなくても理由がある」
「まあ好きにするさ、納得が重要だ」
「なあ巧、おまえに会いたいと思った時に、連絡手段がないことに今更ながら、俺気付いたんだよ。長い付き合いなのにおまえの住処も知らないんだよな。愚痴りたい時にこうやってばったり会えるのは、シンパシーを感じているからなんだろうが、今は相談したいこともたくさんあるし」
「そういえばそうだな。んじゃ、今からウチ来るか」
 本来の降車駅を乗り越し、次の駅で巧と共に下車した。ここは私にとっても縁深い港町であった。巧と連れ立って複雑に曲がる緩い坂道を歩く。潮の香りが懐かしい。この道は……その昔、毎日バイクで通った道だ。秒殺で過去に引き戻されてしまう。
「ここだよ、ちょっとボロいけどな。一人暮らしだから気楽でいいぜ」
「ここは……」
 紛れもない。ここは遠い昔、麻耶と過ごしたアパートだ。こんな偶然て……夢の続きなのではないか。
「酒でも買ってくれば良かったな。待ってろ、今開けるから」
 巧が鍵を挿したのは一階の角部屋。まさにあの部屋だった。信じられない出来事に阿呆面を隠そうともせず、巧に招き入れられるまま部屋に入る。嘗ての生活が一瞬で蘇り、一瞬で消滅した。
 部屋には何もなく、ただ六畳間の真ん中に、当時ツーリングの時に麻耶が着ていたジャンパーが、まるでさっき脱ぎ捨てられたように置いてあった。何だこれは! 何だ? 巧、どういうことだよ! どこだよ巧!
 気が付くと、私はアパートの前に阿保面を貼り付けたまま立っていた。周りには誰もいない。巧もいない。そして見上げたアパートは全ての部屋の雨戸が閉まっていて、住人がいるとは思えない有様であった。夢なのか。私は生きているのか。巧は? 暫く動けずに立ち尽くし切った後、阿保面を直した私は、もう一度眠れば夢は覚めると結論を出した。ふらつく足取りで、我が家まで一駅分の非常に長い距離を歩いて帰り、飲まず食わずで三日三晩、その字の如く眠り続けた。

  倫とじいちゃんの万年筆

 じいちゃんが心配で学校帰りに寄ってみたが、呼び鈴を押しても中々返答がない。二階の書道部屋の窓は全開だ。開いた窓に向けて「じいちゃーん」と、僕なりの精一杯の音量を振り絞って叫んだ。何度目かで顔を出したじいちゃんを見て、胸を撫で下ろす。
 僕がタクミの正体を目の当たりにしたあの晩、じいちゃんは悩んだ末、僕の進言を実行せず家に留まっていた。何故なら、勝手に夜間留守にしたことを、タクミもといアユ兄に責められるのが辛いからだった。暫く僕のアパートでの同居を勧めたが、じいちゃんは済まなそうに、でも嬉しそうに、弱々しく笑顔を見せた。
「ありがとうな、倫。でも受験勉強の邪魔になるだろう。それに理実が嫌がるだろう」
「大丈夫だよ、母さんも承知してる」
「そうか。でも……倫のところじゃ、じいちゃんの寝る所もないだろう」
 僕達への遠慮、本来気の合わない母さんとの同居への懸念、何よりも自分の家ではない不自由さ、それが僕には分かった。だから無理には勧められない。では、せめてタクミについて教えて欲しいと一歩食い下がってみた。じいちゃんは目を逸らしたまま黙ってしまったが、僕も黙ってその返答を待った。
 僕に将棋を教えてくれたのはじいちゃんだ。じっくり考えている相手を静かに待つ。僕に釣りを教えてくれたのもじいちゃんだ。魚が掛かるのをじっと待つ。だから僕は待つ事は得意だ。母さんやアユ兄のようにせっかちではない。
 どの位経ったのだろう、僕の腹の虫が鳴いた。それを機にじいちゃんが少しだけ話してくれた。
「タクミというのは歩のもう一人の姿だ。朱実がいなくなってから、人格として現れたんだよ。倫が察した通り、あの晩居間の作品を壊したのはタクミ、いやタクミに入れ替わった歩だよ。倫はもう理解出来るだろうが、塁達の親権は母親の百合にあるんだ。俺がそれを口に出してしまった途端、大声を挙げたと同時に俺を突き飛ばして、あの大きな額を床に叩きつけ足で砕いたんだよ。その時にはもうタクミだったんだ。この一年、何か気に障ると作品を壊す。いつかの歩の足の怪我も、朱実とコラボした大切な作品を踏み砕いた時のものだ。これ見てくれるか、倫」
 じいちゃんが作務衣の襟を広げると、左鎖骨の下に茶っぽい紫に変色した肌が現れた。タクミに手を出された痕だという。
「俺の私物もどんどん処分させられて、死に急がされている気がするよ。あ、いやごめんな、倫。こんなことまで喋るつもりはなかったんだ……でもな、あいつ俺に、生きてる価値がないって言ったんだよ」
 この非道な話が、ほんの氷山の一角だということがとても信じられなかった。人間生きていく中で、もっとやることや考えることがあるだろうに。ましてアユ兄は、じいちゃんという温かい父親に守り育ててもらった息子じゃないか。アユ兄はエネルギーを費やす場所を誤っている。虚しくなった。怖くなった。
 じいちゃんは、それでもアユ兄を庇うように苦しそうに言った。
「だけど、歩はタクミに変わった時のことを覚えていないんだ。だが、タクミの存在は分かっていて親友だと言い張る」
 ただの二重人格者ではないのだ。
 実際タクミに入れ替わった時の言動をアユ兄は記憶していない。だが、アユ兄自身タクミを現実の人格として認識し、普通にコミュニケーションをとっている。
 アユ兄にとって、タクミが実像として存在しているということは、イマジナリーフレンド? これは幼年期に起こり易い現象ではなかったか。タクミと会話しているアユ兄はアユ兄のままで、タクミとして行動する時はアユ兄ではなくなる。ということは、イマジナリーフレンドが自分自身ということか?
 じいちゃんを守る方法を探すことばかりをずっと考えていたが、この時アユ兄とタクミの関係を解き明かしたいと本気で思った。
 じいちゃんが済まなそうに、
「倫、ごめんな。もうすぐ誕生日だな。何にもしてやれないが、ちょっと待ってろ」
 階下の寝室から、書展でスイスに行った時に現地で購入したという未使用の万年筆を持って来た。
「スイスのモンブラン社製だから良い物だぞ。今の高校生は万年筆など使わないだろうが、持っていてくれ」
「いいの? ありがとう」
 確かに僕には価値は分からない。この時代、使う機会もおそらく訪れない万年筆であったが、じいちゃんが持っていてくれと言って渡してくれたのが嬉しかった。優しいじいちゃんにはずっと元気でいてほしいと、心から願った。


つづく




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