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MES 個展「祈り/戯れ/被虐的な、行為(英題:P-L/R-A/E-Y)」

MESの個展「祈り/戯れ/被虐的な、行為(英題:P-L/R-A/E-Y)」において、《WAX P-L/R-A/E-Y》と題されたパフォーマンスが上演された。私が8月4日に鑑賞した際に、本作は以下のように進行した。照明を落とした空間にふたりのパフォーマーが現れる。ふたりはラグの上に座り、自分の身体の上に蝋燭をのせて火をつける。蝋燭はブロック体の5つの文字「C-E-A-S-E」をかたどっており、それぞれは溶かした蝋によって、伸ばした右の二の腕に、かろうじて接着している。ふたりは立ち上がり、蝋燭を倒さないように、かつ迫りくる火の熱に耐えられるように、慎重かつ不自然な動きを見せる。ふたりはお互いを意識した動き―交差やハグ―を見せつつも、常に自分の蝋燭を倒さないこと、そして火を絶やさないことに集中している。徐々に蝋燭が溶けてゆき、火も消える。ふたりは一度座り、次は左手の指先に、先ほどと同じ5文字を接着し、立ち上がる。ふたたび火が消えると、ふたりは肩の力を抜いて、パフォーマンスの終了が知らされる。

観客はパフォーマーと蝋燭との関係を見続けることになる。蝋燭が倒れそうになると彼らの顔はますます火のほうへと近づく。そのときに照らされるのは、彼らの視線と火/蝋燭との抜き差しならない距離である。場面全体は眼と火との距離に収斂する。と同時に、観客の想像に伝わってくるのはパフォーマーが感じているに違いない火/蝋燭の熱である。蝋が溶けて垂れ落ちマグマのように皮膚上に広がって固まった様子は、裂傷のように見えて生々しい。ふたりが感じているであろう熱と痛みを受け取りつつ、私はこのパフォーマンスが差し向けられる先を考えざるを得なくなる。「C-E-A-S-E」というこの動詞は、一体誰の、何に対して、どのように発信されているのだろうか?

パフォーマンスの一部を映像化した別の作品《CEASEFIRE》(こちらの方が発表の順序は先である)のタイトルを考えれば、「C-E-A-S-E」の向けられる先(目的語)は、まずもって「火」だろう。「C-E-A-S-E」の蝋燭に火が灯されている光景は、したがって、象形文字のように「停戦」のことを指していると受け取ることができる。ここに現実にある戦火への抵抗の声を聞き取ることができる。しかし5文字の蝋燭と火の存在を、反戦のメッセージのみに回収してしまうのは難しい。なぜなら、火に燃料を差し出しているのは他ならぬ「C-E-A-S-E」の蝋燭である、という皮肉な構図が用意されているからである。また同時に、パフォーマンスを通して、「C-E-A-S-E」は決して(物理的に)安定した主張となることはなく、絶えず揺らぎ続けていたからである(この点は後半で論ずる)。

「CEASE」とは、現在進行中の事物をやめさせる/やめることである。あきらめさせる/あきらめることである。今燃えさかっているものに冷水を浴びせることである。したがって、「CEASE」という言明が意味を獲得するのは、有事であり、非常時であり、すでに引き金が引かれた状況である。今何かが燃えさかっている状況である。そうだとして、本パフォーマンスは、いま燃えさかっている火とは一体何なのかを、複雑な仕方で提示しているように思われる。火が広がり肌を焦がすことがないように、かつ「C-E-A-S-E」の文字の連なりをできるだけ長く維持するように、つまり文字(メッセージ)と火のどちらをも絶やさぬように、彼らは不可能な努力を続ける。ふたりの動きは繊細で、炎のどんな揺れさえも感じ取るように鋭い視線が注がれている。その敏感さと緊張は会場全体に張り巡らされてゆき、わたしたちもまた彼らの苦しみと集中を引き受ける。5文字の蝋燭と火は、このようにしてひたすら見続けることを促す。そして時間がたち、文字がじゅうぶんに文字であることをやめ、判別不可能で不定形な蝋涙の塊と化したとき、火もまた燃えることをやめている。火が燃えてから消えるまでに、これだけの粘り強い動きと緊張した視線と、なにより固い意志——あるいは「憤怒」——が尽くされる。蝋燭の火が象徴するのは、戦火だけでなく、これら全てである。

こうした儀式的な時間を、MESはタイトルのなかに〈祈り=PRAY〉という言葉で表現している。しかしそれだけではない。本展覧会の他の作品によって示される蝋と肌との関係性を考えてみると、そこには平穏への祈りとは異なる文脈が浮かび上がり、そして蝋を用いた〈戯れ=PLAY〉と〈被虐≒PREY〉[1]という語が指し示すSM的なテーマが前傾化してくる。

会場の壁面には、蝋でできた平面作品がいくつか架けられている。天井からはレーザー光線が打たれ、蝋の表面を溶かしている。光線は平面上に文字を書くような動きを反復し、溶けては固まってを繰り返す蝋によってブロック体でできた文字列が表出される。「EVEN THOUGH OUR ORGANS ARE THE SAME COLOR」。「THE BOUNDARY BETWEEN YOU AND ME MELTS AWAY」。これらふたつは《SKIN TO SKIN (HOT) RUBBING AGAINST SKIN 皮膚と皮膚が(熱く)こすれて》と題された作品に表示されている。「内臓は同じ色のはずなのに(肌の色は違う)」、そして「あなたと私の境界線が(肌=蝋として)溶けていく」[2]という言明は、〈あなた=YOU〉と〈わたし=ME〉の越えられそうで越えられない最後の境界線、二者関係における肌(のこすれ)に焦点をあてている。蝋のもつ生理的な象徴性(溶けて固まると裂傷のようにみえ、なめらかであれば肌のようにみえる、そして処刑機械よろしく文字を掘りきざむことができる)は、レーザーを用いたこの作品と上述のパフォーマンス作品とをつなぐ重要な要素である。同時に、両作品は〈あなた〉と〈わたし〉の親密な二者関係を表現しているという共通項をもつことも指摘しなければならない。《SKIN TO SKIN ...》では、蝋=肌が溶け、そして「同じ色」の内臓が露出することに、〈あなた〉と〈わたし〉の境界線の消失(侵犯?)が賭けられている。一方《WAX P-L/R-A/E-Y》では、ふたりのパフォーマーが鏡写しになって同じ行為をおこない、蝋の熱による同じ痛みと苦しみを分かち合い、そして一心に集まる鑑賞者からの視線を共有する。

強調したいのは、〈祈り=PRAY〉のもつ現実の政治的状況を指示する意味合いと、蝋燭という素材と〈戯れ=PLAY〉や〈被虐≒PREY〉という言葉のもつSM的な含意とが両立していることである。ふたつの側面によって、両作品が提示するものはより複雑だと気付かされる。

もし《SKIN TO SKIN ...》の〈あなた〉と〈わたし〉が二関係ならば?熱によって境界線が溶けだすような親密な(親密を装った)接近こそが、有事として問題化されるはずである。「あなたと私の境界線が溶けていく」という言明は、被侵略者の悲痛な叫びとも読めてしまうのである。

あるいは《WAX P-L/R-A/E-Y》ではどうだろうか?マゾヒスティックな蝋燭プレイの上演(それを鑑賞者に見られているというプレイでもある)は、蝋燭と火による〈祈り=PRAY〉を、〈戯れ〉としての抵抗、つまりは抵抗のパロディとして二者関係のうちにアプロプリエイトする可能性に満ちている。このことは「C-E-A-S-E」の不安定さと関係している。実のところ、「C-E-A-S-E」が十全に「CEASE」であった時間はそれほど長くない。ふたりのパフォーマーは可能な限り「C-E-A-S-E」が自らの肌の上で立ち上がっている状態を維持しようと努めるが、腕は震え、蝋は形を変えるので蝋燭は何度も落下した。特に片方のパフォーマーは蝋燭を落としてしまうことが比較的多く、「C-A-S-E」や「E-A-E」と表示されている瞬間があった。おまけに蝋燭そのものが燃えて崩れてゆくので、「C-E-A-S-E」は上から徐々に欠けていって最後には「_-_-_-_-_」となり、一方で火は蝋という燃やす対象を失ってついには消えてしまう。以上の変化は、蝋燭を「CEASE」という動詞としてだけでなく蝋でできたパーツの連なりとして認識するように促す。すると、「CEASE」という動詞は火(FIRE)を目的語としながら、火が燃やしている対象は「CEASE」を形作るところの蝋の塊である、という循環がみえてくる。言葉は火を絶やすよう求め、火は言葉を解体し燃やし溶かそうとする、このような仕方で両者はせめぎ合っている。つまり「やめろ」と「やめない」が同時に表現されているのである。このダブルバインドを、反戦の「やめろ」と、マゾヒストの反語的叫び(やめないで)とに当てはめることもできるかもしれない。彼らがやめないのはもちろん、抵抗、そしてプレイである。

以上のような複数のレイヤーを通して、本展覧会の作品の転覆的な——クイアな、と言ってもよいだろう——力は発揮され、現実の政治的状況に対してひとつの態度を表明する(「ceasefire」)のみにとどまらない、強力なメッセージを発していた。しかしながら、パフォーマンス終了時のある行動がこの強度を傷つけてしまったように思われた。最後に指摘しておきたいのだが、パフォーマーのふたりは、パフォーマンスの終わりをわかりやすく示すべきではなかったし、観客から拍手を受けてお辞儀によって応えるべきではなかった。なぜなら、パフォーマンスの終わりが明確に示されることによって、観客が鑑賞体験を終えてすんなりと日常へ戻っていけるような断絶を提供してしまったからである。さらに、会場に張り巡らされていた緊張状態の緩和を示す拍手と、それに対するお辞儀によって、パフォーマーは、観客の身代わりとして苦しみ、「CEASE」を代弁してくれた役者というべきポジションに収まってしまったからである。これによって、すでに述べたような〈祈り〉〈戯れ〉〈被虐〉が並列されていることのもたらす転覆的な力が、一挙に「ガザ停戦を求める抵抗の代行」へと矮小化されてしまったことが、残念でならない。ゆえにあえてこう述べる必要があるだろう。本パフォーマンスは、「プレイ」にすぎないのだ、と。



[1]「prey」と「被虐」が同じ意味なのかどうかにはある程度の留意が必要と思われる。「prey」の意味は「被食者」「犠牲」「捕食(行為)」だからである。「被虐」という日本語があえて用いられていることに、筆者はSMプレイという含意を読み取った。
[2]日本語訳は会場で配布されたハンドアウトによる。ただしカッコ内は筆者による。


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