樋口毅宏『民宿雪国』書評 これは、読者のモラルへの挑戦状である
先日私は、樋口毅宏氏の著作の回収騒ぎについて、その経緯や本の感想について、文章にまとめた。
今回は私が樋口の小説の中で最も衝撃を受け、かつ現在でも普通に読める小説を紹介したい。『中野正彦の昭和九十二年』は終盤壮大なスケールで、この国が今後歩んでいくだろう破滅と絶望の未来を描く。いっぽうこの小説はまた別のベクトルで、この国の過去から現在に至る道筋を、一人の年老いた画家の視点でたどっていく。それを読みやすくユーモアあふれる文体で描写する。
で、1年ほど前にこの小説を読んだ。考えるとこれがはじめて手に取った樋口の小説だった。その時思った率直な感想は「なにこれ、こんなの読んだことない……」というものだった。
この小説の面白さを、作者でもない私の言葉、つまり本文以外の言葉で表現するのは相当難しい。というのも樋口文学の特色として、他の作品との比較をしたり相似したりできないという点がある。つまりアナロジーが極め困難な作品が多い。もっとわかりやすく言おうか。樋口小説は他のどの小説にも似ていない。純文学でもミステリでもSFでもないし、しいて言うなら色々混ざったものというか……これは樋口のファンには結構わかってもらえると思う。
尤も樋口の小説にはあるパターンがあって、何冊か読むとなんとなく次の展開とかが読めるようになったりする。それでも高を括っていていてページを手繰った次の瞬間「は、なんやこれ……」と(いい意味で)絶望したりドン引きさせられることがあったりするので油断ならない。ちなみにわたしにとって『中野正彦の昭和九十二年』はまさにそのパターンだったりする。油断ならねぇ。
『民宿雪国』のこのあらすじはある意味詐欺だ。というのも、あなたはこのあらすじを読んでどんな本だろうと思うだろう。
『私が新潟県T町を訪れたのは、その年の暮れも押し迫ったある日のことだ。』という本書の書き出しの一文を読み、きっとこれは、とある架空の画家の退屈でまじめな自伝小説なんだろうなと私は思った。そこに多少のエンタメ的な添加要素を、たとえばこの件の画家が、海を臨むさびれた民宿の経営をしながら、実は陰でなかば犯罪まがいの行為を行うバットマンみたいな義賊だった、とか……ところが私の読了後の心境は、なんかこう、このあらすじを読んで思い描いていたものとは、全く別の世界に、すごく真っ黒なところに連れて行ってくれたのだった。
……これ以上、本作への言及は避けたい。というもの、本作はできればまっさらな気持ちで、微塵の先入観もなく読んでもらえればベストだからである。できれば本の帯にかかれた煽り文とか、そういう情報も一切不要である。気になったらこのままAmazonで電子書籍をダウンロードするか、朝イチで書店に行って買ってこんかい。私の言いたいのはこれだけで、なんだったらこの話は仕舞いである。
何をいわんやと言えば、本作は、言ってしまえば読者への挑戦状のような小説なのである。しかも読む者のモラルを問う小説だ。こんな不意打ち、なかなか味わえないのではない。想定問答のように何かしらの知識を予習してもたぶん無駄。できれば現状のあなたのレベルのままで、この小説に丸裸で取り組んでもらえればその衝撃は増す。本書で書かれた悪行を前に、あなたは何を思うだろう。私は小説を書く人間でもあるが、すなおにこの著者のもつ「悪の想像力」の豊饒さにも感服していた。よくこんな悪いこと、身の毛もよだつことを考えついて文章にしたものだ、と創作者視点でも舌を巻いた。
それも、現実離れしておらず、現実にあるものを最大限に活かしているのが凄い。『中野正彦の~』でも現実の著名人の放言や、ネットの書き込みを最大限に樋口は使っている。それと同じように、たとえばだが、樋口はかつて我が国が「併合」という名目で他国を侵略、植民地化した歴史を『民宿雪国』の創作に転用したに過ぎない。そのほかにも「現実のなにか」をつかい、フィクションの輪郭を形作っている。
『民宿雪国』で描かれる現実離れしたえげつない悪は、現実で遂行されている「より強大な悪」の因果や延長のように描写される。それゆえ「こんなことは現実ではありえない」、と本書を読み終えた者の野暮なツッコミを予め、ガードする補助線のようでもある。なにより戦後の犯罪史を踏まえその点考えると、必ずしもないわけではないかも、という困惑交じりの結論にいきつく。それがなんとも『民宿雪国』という1フィクションに過ぎない作品を、一層気味悪いものにしている。何気なく報道された三面記事の裏側には……という奇妙な想像力を働かせてしまうような力をもっている。
剰えこの小説は「戦後の日本の発展も、結局は過去の野蛮の総括なき、いわばまぼろしようのようなものだった」という、ところまで行きつく。というのも、実在の文化人や経済人を小説に絡め、その誰もがどういう訳か、丹生雄武郎という謎の人物と繋がりをもっているような描写がされるのだ。つまり丹生は、その描く絵は何を象徴しているのか、という点につきる。彼はある意味、この国の被害者ともいえなくもない。反省や総括がないまま、丹生とは唯一芸術という線でつながった人々とは何なのか。開き直ったまま疑いもなく経済的繁栄を享受する人々は何なのだろう。そう問うているのである。さらにその先、戦争の罪悪感どころか偏った差別主義を次の世代に継承して丸投げにするこの国のシステムにまで本書は踏み込んでいる、と捉えるのは流石に考えすぎだろうか。まぁその解釈は、読んだ人に任せる。
ただ一つだけ言えるのは、この小説は差別によって苦しめられた人間の「痛み」に寄り添った小説でもある。彼らへの眼差しが一層小説のこのゴア表現をむごいものにしているのだから皮肉の限りだが。
もういっぺん書いて終わろう。『民宿雪国』は、読者のモラルへの挑戦状のような小説だ。好きな小説ゆえ色々ごちゃごちゃ書いてしまったが、こういうことを言いたかった。私は少なくとも、こんな読んでいてこんなに悲しくて、胸が締め付けられて、何より気色悪くなった小説はついぞなかなか読んだことがない。