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ライザップ的なものへの、アロノフスキーの戦い 映画『ザ・ホエール』感想 

先日見てきた。まぁ感想です。今年のアカデミー賞候補作の中では、一番刺さった映画だと思う。2番目は『西部戦線異状なし』かな。

ダーレン・アロノフスキーが嫌な映画を作るやつだというのは知ってた。レクイエムフォードリームにせよ、ミッキーローグのレスラーにせよ。今回もやはり、いい意味で嫌な映画だった。

嫌にも色々とあるのだが、アロノフスキーが好む?のは、とくに悪いことは何もしていない人から醸し出されるある種の痛々しさ、というかぶっちゃけるとイタさを露悪的なまでに浮き彫りにするそのスタイルである。ブラックスワンでは正直その作家性の運用に乗り切れないものがあったのだが(今日び、男の鬼コーチにしごかれて泥沼を這いずり回って漸く覚醒する天才バレリーナなんて、はっきり言ってどうかしてる)、逆にレスラーとか、このザ・ホエールではそのやり方がしっくりきた、という印象を受けた。

本作のブレンダン・フレイザーが演ずるチャーリーからは、しっかりとその痛々しさが醸し出されている。かつてハムナプトラでぶいぶいいっとったあの美男子も、特殊メイクの恩恵に預かって体重200キロ越えの巨漢になった。しかも、どこか自らの死を悼むようなキャラ付けをされていて、それが一層悲しみが募る仕組みとなっている。

何しろ、彼が何かするたびに、何というか、ちょっとした暴力性を帯びてしまうのだから。家を訪った小鳥のためにご飯を用意する、フライドチキンやお菓子に必死にむしゃぶりつく、重い体を引きずるように歩行器を使って歩くだけで、いちいち恐ろしげ音を立てる。そしてその暴力は、間違いなく自分自身に向けられている。緩慢とした自殺をほうふつとさせる。ついでにいうと、かつて家族から拒絶されたショックから、恐らく作中の会話から食事を絶って餓死のような死に方を選択した恋人と、まるで真逆の死に方をチャーリーは選んでいるのだなと思うと痛ましくも、亡くなった恋人への深い愛を前にして、こちらの倫理が試されているかのような気持ちに陥る。

かつて家族を捨て、愛人とともに出奔した男、と聞くとつい私はろくでなしを想像してしまうが、チャーリーからはそういうものは感じられない。過去の罪を悔いながら、どこか卑屈になり過ぎないていどに、人付き合いを続けている。という感じを受ける。

チャーリーの、特殊メイクで作られた肉体をみていると、一時期流行ったライザップのCMを思い出す。まるで肥満は悪そのものである、というマッチポンプそのものの内容。あれは今考えても、すぐにうちに入会してトレーニングに励みなさいといわんばかりの傲慢なCMだった。まだ、ルッキズムへの関心が薄かったころだったと思うが、我が国で堂々とした容姿に対する差別的な表現を、数年前まで平然とかましていたのである。改めてよくよくこのことを考えると、恐ろしいとは思う。

ザ・ホエールでは「disgusting(おぞましい、という意味)」の単語が台詞で何度か登場する。それは作中、チャーリーにのみ明らかに向けられた言葉であり、またそうした体形に世間が抱く偏見を、わかりやすく、ひとまとめにしたような言葉でもある。終盤の宣教師とのやり取りで、チャーリーははっきりと彼から「あなたはおぞましい」告げられる。そんな彼はその直前に、チャーリーに、恋人の死は同性愛に由来していた、肉を貪ったために神の怒りを買ったものだったと説く。

あなたは、女と寝るように男と寝てはならない。それはいとうべきことである

旧約聖書レビ記18:22より

聖書を紐解くと、こうした表現が登場する。聖書が悪だというつもりはない。言ってしまえば、たかが書物である。だが、作中、テレビからは大統領予備選の挙速報が流れるが、その中に今は懐かしいトランプの名前が(さりげなく)読み上げられる。彼の支持層は、キリスト教の教えに忠実な福音派をはじめ、色んな意味で保守的な人々だったことを思い出す。

であれば、アロノフスキーがチャーリーというキャラクター造形に込めた意図もそれとなく理解できる。彼を慮ってか「病院にかかれ」という者や、先の宣教師のように救済を施そうとする人間が現れる。しかし彼は耳も貸さず、ただ自分の道を行くのみなのだ。その姿は、世間の不寛容に対する静かな抵抗運動のようにも見える。 

閑話休題。少し話を買えたい。ナチスドイツはかつて、自国の精神障碍者や身体障碍者に対して、安楽死政策を実行した。その作戦名T4作戦は、1939年から41年まで続いた。そして「生きるに値しない命」と勝手にラベリングされた多くの罪なき人が、虐殺された。

一方、ナチスはかの有名な禁煙政策など、健康政策の促進に力を入れてきた。ダーウィニズムに基づく優性思想に則る政策や広報活動を行った。また、ナチスは産めよ殖やせよと言わんばかりに、ゲルマン人の子を大量に得るための、性の解放を謳ってきた。健康的な、選ばれしゲルマン系の男女には政府は、むしろ積極的に性を「解放」してあげたのである(そして、生産性のない同性愛者は、さも当然のように迫害された)。

健康のために痩せよう、君の為に言ってあげてるのに。言っている本人は本当に心配してあげているのかもしれない。しかし、それがいきすぎた世界は、既に我々の祖先はとっくの昔に経験している筈なのに、また繰り返しつつあるのはどういう訳なのだろうと思う。そして、そうした軽佻浮薄な言葉の尻馬に乗ってしまう我々の脳みそは、いつになったらアップデートするのだろうと思う。映画を見ながら、ふと関係のないことが頭の中に色々と浮かんだ映画だった。


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