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誰かの成長や成功を、感動ポルノとして描かない選択『ぼっち・ざ・ろっく!』最終話の衝撃

ぼっちざろっくの最終話が凄いのである。ただ、私自身何が凄かったのかよくわからなくて、視聴から3か月近く経ってしまった。そんな時に、こんな動画を見た。

22年に公開されたアニメ、『ぼっち・ざ・ろっく!』の最終話での、各国のファンの反応を集めた動画だ。どの配信者のリアクションも良いが、取り分け一番右下、はしっこの男性のリアクションに注目してほしい。

調べてみると彼は「わさもん Anime Reaction 2nd」という名で活動中のユーチューバーで、その名の通りアニメ視聴中の自分のリアクションを動画にしてあげている。上にあげた動画のコメント欄で「静かに泣くニキ」と呼ばれ親しまれている彼なのだが、確かに動画の最後で、彼はティッシュを手に、自分の目元を拭うのである。嗚咽をあげることなく、だ。彼は間違いなく静かに泣いていた。一体、このライブ・シーンで、何故彼の心は動かされたのだろうか。彼はこのライブで一体何を見たのか(ついでになぜか私ももらい泣きした)。

上が静かに泣くニキのようつべアカ。チャンネル登録してあげようね

私がぼざろに触れたのが、今年の正月明けの頃だった。何やら今、ネットでめっちゃバズってるアニメがあると聞き、早速見てみたのだ。

で、面白かった。しかし冒頭にも書いたのだが、それがどうして面白いのか、うまく言語化できなかった。で、今日まで放置プレイしていたという訳である。

そんな中、一番頭に貼った動画を偶然見つけた。不思議なことだが、私の中でより明確にこのアニメのことを言語化されたようなきがした。それを私はこの場を借りて語り、これまでちゅうぶらりんだった結束バンドとの関係に蹴りをつけたいと思う。それにしてもありがとう、静かに泣くニキとしか言いようがない。

さて、現在連載中の原作マンガも面白いのだが、今回アニメ化された範囲(1~2巻の途中)については、アニメの方が完成度は高い。というより、より原作の良さが明確になった、という印象を受ける。原作のやっすいお色気描写がアニメではナーフされている点は好感が持てるし、後藤ひとりの奇行の映像描写があまりに面白すぎるなど、色々挙げることは出来る。そして何より、音楽による力が大きい。

そもそもである。マンガというメディアでバンドものをやろうというのがある意味無謀な試みと言えるのだ。サイレント映画でミュージカルものを作ろうとするくらい無謀ではないだろうか。マンガ原作はそれはそれの良さがあるが、アニメ版はサウンドトラックの力を借り、ぼざろのいいところが鮮明となったのだ。

ぼっちちゃんのトランスフォームのようなナンセンスなギャグシーンと裏腹に、本作の演奏シーンは真摯のひとことで、ちょけてなくて、いずれも良い。中でもずば抜けた完成度を誇るのは、最終話の学園祭ライブシーンだ。作劇、作画、キャラクターの演技、物語がこれまで積み上げてきたもの、そしてなにより音楽が一体となる。

とりわけ喜多ちゃんのソロ演奏シーンから、ぼっちのボトルネック奏法に移行する場面で盛り上がりはピークに達するのだが、ここに至るまでプロットで細かな仕事が施されている。例えば酒カスベーシストこと廣井きくりがいつものおにごろではなくワンカップ酒を持参(パックの強度ではスライド奏法はまず不可能だろう)、数話前から喜多ちゃんが言い淀む台詞など、ぼっちのギターが相当年代物である、など伏線が張り巡らせてある。これは視認できる演出で、原作とほぼ同一の流れだ。

しかし肝心なのは耳でしか味わえない演出、アニメのみで試みられた演出の方だ。ライブで演奏される「星座になれたら」という楽曲の歌詞は、ロマンティックなラヴソングのようでもある。他方、星座が象徴するような、この世の中で美しくて煌めくとされるものへの、渇望に近い憧れを言語化したような、切なさや諦めが認められているようにも思える。

いいな 君は みんなから愛されて
「いいや 僕は ずっと一人きりさ」
君と集まって星座になれたら

「星座になれたら」より

ついでに、私がこの歌を聞いてまず頭に浮かんだのは、宮沢賢治の「よだかの星」でだったりする。

「お星さん。西の青じろいお星さん。どうか私をあなたのところへ連れてって下さい。灼けて死んでもかまいません。」

宮沢賢治『よどかの星』より

ただしである。ぼざろは決して、よだかの星のように世の中の差別を浮き彫りにし、苦しむ人々の内面を描いた、みたいなお話ではない。まして息苦しさや生きづらさを描いてもいない。後藤ひとりはいじめられているわけでもないし、虐待もしかりだ。ただ、彼女は人付き合いは苦手だけど、ギター演奏に関してはスペシャルで、本人もそれを自覚して内心で自信を持っている。それに見合う努力もしてきた。それに伴った成果が欲しいだけ。人間関係も、交友関係を無理に広げたくなくて、家族とか結束バンド以外の不要なものは極力避けたいと思っているその一方で、人々からちやほやされたいとも願っている。しかも、そうした「取るに足らない」ような苦しみは、大概はきらら的な日常パートやギャグに吸収されてしまうのが恒例である。

しかし、ディティールの違いはあれど、遠くに輝く「星」に対する切実な気持ちは共通している。そして、現状留まることを強いられているその環境や立場への、不満や苦しみといったものも、間接的に伝わってくる。

喜多ちゃんに対する複雑な感情は、初めて喜多ちゃんを結束バンドに誘う直前のモノローグや、10話の保健室での妄想シーンなどで表現される。妬みやコンプレックスとはどこか違う、本当に複雑な思いである。

ぼざろにおいての、その苦しみってなんだろうねぇという話になるが、結局のところ「(喜多ちゃんみたいな)輝く存在になりたい」ということではないか。というのも、喜多ちゃんのようなひと握りの選ばれた人々が星のように輝くその下では、実はたくさんの「ぼっち」たちの努力があって、それに支えられている。でも世の中は優しくなくて、注目されていい思いをするのは、角の立ちそうな言い方になってしまうがいい意味でも悪い意味でもフロントに立って目立っている人間なのだから。

劇中のぼっちの活躍を見ていると、そういう残酷な現実を突きつけられる気がする。どれだけ結束バンドの危機をキャリーしてきても、彼女の凄さに気がつくのは、ほんのひと握りの人だけ。

本作の学園祭のライブだってそうだ。最終話のライブでも観客の1人がぼっちのスライド奏法を見てつぶやく言葉が、如実にそれを表している。センターに立ちボーカルというわかりやすい場所にいる喜多ちゃん、対して隣でリードギターではあるが、その輝きの前に霞んでしまうぼっちのギターテク。いつだって、世間は無知ゆえにいつだって残酷なほどにわかりやすい方へ、評価を行うのだ。

「つないだ線 解かないよ」とボーカルが優しく歌いあげるその横で、ぼっちのギターから垂れ下がる一本の弦を確認できるはずだ。まるで一瞬ふわりと風に舞うかのような挙動を見せる、この断ち切れた弦は、我々が見過ごさないような配慮が施されている。この弦は、原作では描かれていない。アニメで初めて追加された演出である。

うん、まぁ、なんだろうかこのシーンは。というやつだ。

このシークエンスで表現されるのは、星座=つながりたいと願う人間が書いた詩を、既につながりを持っている人間が飄々と歌う。その横ではともすれば、断絶や諦観といった言葉を連想される演出が差し込まれるのだ。

音と映像、それぞれ全く真逆の意味や解釈を成す言葉やレイアウトを設定することで、二律背反の状態といえばいいのか。ここは意外と複雑なシーンで、さまざまな解釈が可能だ。恣意的な意味づけをされる危険もあるが、しかし破綻しているわけなどではなく、原作者の意図を忠実に汲み取りつつ、映像化するならこれしかないという作り手の確固たる決意を感じされる。改めてだが、原作でたった数コマで描かれなかったシーンをよくここまで膨らませて脚色したなと思う。ライブシーンの演出の細かさは、本当に無駄がない。登場人物のちょっとした目線の動きすら、必要不可欠な描写として採用されている。

星座、というのは美しいものである反面、古代の天文学者ならいざ知らず、現代の我々からすればひどくこじ付け的に思える。星からしたら勝手に他の星と紐づけられていい迷惑かもしれない。そう考えると、「あなたと星座になりたい」という願いは一転、ひどくエゴイスティックな願望に反転する。束縛といった言葉を暗示するようになる。よだかの星のよだかも、誰かの星座の元に連れて行ってくれるようお願いしても、誰からも受け入れられなくて、最後は一つの星になった。

ぼっちちゃんは作中、臆病な子ども特有といえばいいのか、人の顔色をよくみる子として描かれることが少なくない。もちろんこれも軽いギャグとして回収される。そして誰よりも友人やメンバーの異変に気がつく一面も持っている。歌詞にあるとおり、所詮「絵空事」なのである。

以外とかしこくて、めざといぼっちちゃんもまた、自分のエゴに多分気付いているのではないだたろうか。ぼっちちゃんらしい、他者に対する臆病さとその裏返しの優しさないまぜなった、迷いが表現されている。そして、そうした心理を無闇に言葉を重ねるのではなく、映像作品として筋を通すがごとく、演出の中に落とし込んだ。とみるのが自然ではないだろうか。

「みんなに見せてよ。本当は後藤さんは、凄くかっこいいんだってところを」

アニメぼざろ最終話より

翻って、この喜多ちゃんの台詞である。このライブシーンは、本当に見る者の価値とか解釈を揺り動かす。まるで振り子のように、思考がいったりきたりする。歌詞や画によって表現されるぼっちの迷いに対して、救いの手をさいのべるように。

「私は、人をひきつけられるような演奏は出来ないけど、みんなと合わせるのは得意みたいだから」

「私…ひとりちゃんを支えていけるようになるね」

同上

これもまた、つながろうとする強い意志が言葉になっている。しかもぼっちからすれば眩しいまでに輝く喜多ちゃんサイドから。ぼっちの書いた歌詞の真意を読み取って、それに呼応するように。「星座になりたい」の歌詞はこの瞬間から、喜多ちゃんに共有、というより彼女のものとなった。

誰かが書いた言葉を、変えたりせずにそのまま口にするということ。究極の肯定も描いているのだ。それがどれだけ凄いことか、そしてどれほど美しいことか。。後藤ひとりの逡巡が混じった本音に対し、そのままでいいんだと力強く肯定するように。

しかし、アニメのぼざろ並みの演出家であれば、感動的に描くだろう。それもあからさまに、過度に。ただ本作ではその心配は不要である。何しろ、ライブの熱狂に対して制作陣が自ら冷や水をぶっかけるが如く、ぼっちちゃんのダイブ失態→壊れたギターの購入、という日常にフォーカスが当たり、そのまま終わる。

ちょっと待て、と。筆者はミュージカル映画が好きで、数多く見てきたが、こんな風に〆る作品なんて、なかなか無いぞ。歌や音楽ではなくて、日常の光景の中で「はい、おしまい」となる映画や物語なんて。それも意外性とかを狙っている訳ではなくて、何故かこちらが「しっくり」と来る終わり方なのだ。

まんがタイムきらら系のクリエーションやそれに親しむ読者にとって、日常というとめどなく流れる濁流の中には、個人の成長や成功といったものは、不要とまではいかないものの、取るに足らないという印象を受ける。まんがタイムきららが生み出した日常系というジャンルが大切にしてきたのは、何よりもつまらなくて平凡だけど、同時にささやかな幸福が漂う日常だった。それは、人為的に生み出され、つい私達が飛びついて消費してしまいがちな「感動」というやつよりも、うんとかけがえのないものだ。

脚色しようとすれば、いくらでも学園祭のライブでフィニッシュするやり方はあったはずだ。まして、あんなゴリゴリに脚色されたハイコンテクストなライブを見せられた後では、そう感じるのは猶更である。それを敢えて、日常の一コマの中で受け止めた。そこに、私はある意味一番痺れた。

世間で尊ばれる成長だの成功だの、あるいは感動的なラストだの、そんなものに中指を立てるがごとく。ラストは永遠にループするようなかけがえのない日常によって〆る。これぞ現代的な価値に対する反逆、最高のロックではないか。

とりあえず、2期(それか映画か?)が楽しみだ。シーズン1で相当ハードルはあがったし、どこまで描かれるのはわからないけど、結束バンドが勝負をかけるフェスとか、虹夏ちゃんとお姉ちゃんのエピソードとか、どう料理してくれるんだろう。そして、本作の裏主人公して真のヒロイン、大槻ヨヨコがどんな風にフレームの中で活躍してくれるんだろう。とりま、今は待ち遠しいという気持ちでいっぱいだ。



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