見出し画像

アントニヌスとファウスティーナの神殿について

アントニヌスとファウスティーナの神殿と呼ばれているこちらの神殿は、古代ローマの政治経済の中心地、フォロ・ロマーノの、その、ど真ん中にあります。

私が初めてフォロ・ロマーノを訪れた時は、眼に入ってくる遺跡、神殿、風景全てに度肝を抜かれ、今、自分の目の前に広がっている光景は一体なんなんだ!?という未知の感覚に襲われました。
そんな多くの遺跡の中でも、今回は特に気になったこの神殿についての小話を書きます。

この神殿は古代ローマ史に燦然と輝く、五賢帝のうちの1人「アントニヌス・ピウス」に捧げられた神殿であり、彼の死後、皇帝になった「マルクス・アウレリウス」の直言により建立されました。
ただ、アントニヌス帝の時代は名だたる歴史家が記述することが無い程に平和な時代であったようです。
古代ローマ帝国の領土はトライアヌス帝の時代に最大になりましたが、最も平和な時代はこのアントニヌス帝の時代だと私は考えています。
アントニヌス帝のピウスとは慈悲深きという意味合いがありますが、そう呼ばれるようになった所以の1つに次のようなエピソードがあります。

アントニヌス帝の先帝はテルマエ・ロマエでお馴染みのハドリアヌス帝です。
ハドリアヌス帝は自身の足で帝国の僻地を周り、防衛線を徹底的に強化した、という実績があり、皇帝としての責務を全うしました。
しかし、死が訪れる前の時期から彼の行動に異常がみられ始め、数名の元老院の議員に対して処刑宣告を言い渡したりと暴君の様な振る舞いをしました。
その時にその様な事があってはならないと尽力したのがアントニヌス帝です。
そして、ハドリアヌス帝の死後、元老院はハドリアヌス帝に対して記録抹殺刑を言い渡しました。
古代ローマでは名誉が最も尊いものとされ、その実績を全て消されるということは、命を奪われる死刑よりも重いものとされていました。
しかし、アントニヌス帝がハドリアヌス帝の実績を認め、どうか記録抹殺刑にはしないで欲しいと、涙を流しながら元老院の議場で訴えたとのことです。
その熱意に元老院は記録抹殺刑を取り下げ、アントニヌス帝に「ピウス」の称号を与えました。

話をこの神殿に戻します。

私がこの神殿を初めて見たときに凄まじい違和感を覚えました。
それは、あまりにもアンバランスな大理石の列柱と神殿の位置とファサードです。
そもそも古代にこんな形のファサードってあるのかな?と思い、帰国後に調べてみたら次のような事が分かりました。

大理石の列柱は古代ローマ時代のものであり、神殿が建立された当初からのものみたいです。
そして本殿は18世紀に建てられたものということでした。
約1600年の時間差がこの建築にはあるか、これが私が感じていた違和感の正体か、とそんな感慨に耽っていました。

また、もう1つ、この大理石の列柱に関する面白いエピソードがあります。
中世、ルネサンスの時代、フォロ・ロマーノは抜群の大理石の採石場でした。
なので、多くの神殿、彫刻が破壊され、貴重な古代遺産が姿を消していきました。
そんな状態を嘆き、ローマ法王に直訴したのが、ラファエロです。
過去の芸術、先人が残した素晴らしい遺産を守ろうとする姿勢に感動します。

そして、例外なくこの「アントニヌスとファウスティーナの神殿」も破壊の対象になってしまいました。
本殿は見事に破壊されてしまいましたが、何故かこの大理石の列柱だけは、どうやっても破壊できなかったのです。
列柱に紐をくくりつけて、引っ張って倒そうともしたらしいのですが、倒れなかったみたいです。
その時につけられたとされる傷がこの列柱の上部にあるので、現地を訪れた時はチェックしてみてください!

いいなと思ったら応援しよう!