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情熱と愛情と・・・未来を創る
大学時代の恩師の訃報
大学時代の恩師、ゼミの先生だった村橋正武先生が亡くなりました。
先生は、元々建設省(国土交通省)の出身で、退官後立命館大学の先生になり、私の年代がゼミ生としては6期生でした。
毎年11月頃にOB会を京都お昼に開催しているのですが、昨年(2か月前)はその日夕方から自分が事務局を務める団体の総会が岡山であり、参加が難しかったのですが、先生の体調もあまりよくないと聞き、少しだけでも思い、1時間だけ参加しました。
体調がよくないと聞いていましたが(酸素ボンベはもっておられましたが)、衰えることのない情熱で、先輩はじめ私たちの仕事のことを聞いてくれ、特に行政に携わる人には、どのような状況なのか、どう考えているのか熱心に質問してくれました。
考えてみると公務員になったのは
今日はじめて意識しましたが、よくよく考えてみると公務員になったのは村橋先生の影響でした。
高校を卒業して、大学に行った時、公務員になるイメージは全くありませんでした。都市計画に興味をもち、村橋先生の話を聞き、国家公務員の試験をうけてみようと思ったのが公務員を意識した最初でした。
大学院に行き、国家公務員試験をうけるというのが大学4回生当時の私が持っていた将来の一つのイメージでした(国家公務員は選択肢のひとつで決めていたわけではありませんでしたが)。大学院試験を前に、院の進学試験の練習もかねて岡山県庁の試験をうけました。(勉強不足だったため、合格するとは思ってませんでした)
そこで思いがけず1次試験に合格し、将来は起業(イシダ工務店の事業継承含む)と思っていたため、悩んだ末に大学院にすすむのをやめ、世の中の仕組みが勉強できるだろうとの思いで、公務員(岡山県庁)の二次試験をうけることにしました。公務員になったのも村橋ゼミに行ったからだなとあらためて思います。
OB会の後の先生のメッセージ
2か月前11月のOB会の時に、ひょっとしたら先生に会える機会はもうあまりないかもしれない。そんな思いで参加しました。先生ご自身も体調がすぐれないこともあってか(会った時は全くそんな雰囲気なくエネルギッシュでしたが)、OB会のあとにOBに対してメッセージをくれました。
その一部を紹介したいと思います。
記録をのこすこと
君たちは今まさに世の中を支える重要な役割を担っています。仕事、家庭、地域、好きなこと等様々な分野での活動を期待しています。それと同時にこの活動を日記、メモなど何らかの記録として残しておきなさい。
OB生は30代から50代で働き盛りの年代です。日常に追われていることも多々ありますが、記録を残しておくことで、何かの時に自分自身にとってもまた同じことに取り組む後輩たちにとっても記録に触れることが大きな気づきになると教えてくださいました。実は1月からブログを再開したのも先生のこの言葉があったからです。
OB会の存続とOB達の活躍を応援してくれていました。
常々言っているように君たちは小生の財産です。一人一人が財産であるとともにOBOG会という組織そのものも財産です。どうか君たちもこの会が長く続くように頑張ってください。心より期待しています。
最後に最も可能性を秘めた年代ですから元気一杯活動して下さい。
今ふりかえるとこうしたメッセージをくれていたことが、先生もいつまでご自身がOB会に参加できるかわからないと感じていたのかもしれません。
危篤状態と聞いたその日のこと
1月21日自宅にかえると先生から年賀状が来ていました。そもそも私が出すのが遅かったのですが、それに対して返事をくださっていました。
早々に賀状をどうもありがとう。遅くなりました。
元気な君の姿を見ているとうらやましいです。
これからも皆さんのためにがんばって下さい。
いただいたその時は、がんばろう!としか思いませんでしたが、今振り返ると先生から「うらやましい」という言葉が出るのは意外な気がします。
非常に情熱的でアクティブな先生なので、大きく社会が変化する中、取り組むべきこと必要なこといろいろと考えをめぐらしていて、ご自身で取り組みたいこともたくさんあるものの体が自由にならないという思いもあったのかもしれません。
年賀状をもらったその夜に同期の友人から先生が大学に行った帰りのタクシーで意識を失い、危篤状態であるとメールがきました。
残念ながらその次の日1月22日に先生は亡くなられました。
全国から教え子があつまる
1月26日みんつくのシンポジウムなどがあったのですが、無理を言ってオンライン参加にしてもらい通夜に参加してきました。
先生は京都にお住まいです、岡山から京都は近くですが、参列してみると全国各地から教え子が来ていました。私たちの年代(2000年代になり替わったと聞いていますが)の頃は、大変厳しい先生でした。
ただ、厳しい言葉はいつもまっすぐな言葉だったなと思います。
また先生自身の考えを学生に押し付けるようなことはありませんでした。
本当に情熱と愛情にあふれた先生でした。
70代、80代になって、自分にあの情熱があるだろうかと?がついてしまいますが、「元気一杯活動して下さい」その言葉を胸に取り組んでいきたいと思います。
情熱と愛情と・・・目の前のことに取り組む
ゼミ生の先輩にある県の副知事をされている方がいます。
その方が、OBを代表して通夜で挨拶をしました。
先生ほどの情熱を持って取り組めているだろうか
先生ほどの愛情をもって部下や後輩と接しているだろうか
そんな風に挨拶されました。
たしかに、村橋先生を表す言葉は、「情熱」と「愛情」だと私も思います。
私たちが専攻した都市計画の法律の第一条にこう書いてあります。
「この法律は、・・・都市の健全な発展と秩序ある整備を図り、もつて国土の均衡ある発展と公共の福祉の増進に寄与することを目的とする。」
2040年、2050年の社会はどうなるのか、どうしたいのか。
情熱と愛情をもって、目の前のことに取り組んでいきたいと思います。
そうした私たちOBの取組が、先生への恩返しかなと思っています。