限りある時間。年老いた両親と過ごした春のひととき。
「あと何度、両親と桜を見ることができるんやろか」
2年ぶりに日本に帰国した。偶然にも、桜は満開。桜を最後に見たのは、7、8年前だっただろうか。
海外ではたらきはじめてから、桜を目にする機会がほぼくなくなり、いつしか桜の存在を、気に留めなくなっていた。
風が吹くと花びらが、ひとつふたつと舞い踊る。花びらは、川の流れにのってどこか遠くへ消えてゆく。今、咲き誇る桜たちも、あと数日で散りさってゆくだろう。
そんな儚いいのちを眺めていると、「親との限りある時間」という現実に、胸が押しつぶされそうになっ
た。
親の死に目に会えないのは親不孝
「遠くに暮らしていると、親の死に目には会えないって覚悟しておいたほうがいいね」
以前、ランチを食べながら、同僚のGさんがぽつりと呟いたことを思い出した。意外にもその声に悲壮感は漂っていなかった。むしろ、悟ったようなさわやかなトーン。
最近、Gさんはお母さまを亡くされた。急な出来事だったため、帰国は間に合わず、息を引き取る際には、そばにはいてあげることができなかった、と。
しかし、不思議と、死に目に会えなかったことに対する後悔の念には苛まれなかったそうだ。
「親の死に目に会えないのは最大の親不孝」
日本社会では、昔からそういわれている節がある。だからなのか、どんなに忙しくても、親が危篤との報せが入ると、とりあえず駆けつけるのが当たり前。
世間もそれを当然のことのように受け止めている。死に目に会えなかったことで、後悔しつづける人も少なくないだろう。
かくいう私も、心のどこかでそう思っているところがあった。
今日が最後の一日かもしれない
海外ではたらきはじめて、20年近くがたつGさんは、ある時を境に、親の死に目には会えないことを覚悟しはじめたそうだ。
物理的に、親の最後を看取ることは難しい。だから、どうしようもないことに対して思い悩むよりも、できることに意識を向けよう、と。
年に数日しかご両親には会えない。だからこそ、帰省した際には、両親と愉快なひとときを過ごそうと努力する。
今日が最後の1日になるかもしれない。だから、最高の時間を過ごそう。
Gさんは、そんな覚悟があったから、看取ることができなくても後悔がなかったのかもしれない。
できないことよりも、できることを
わたしの両親も、70代後半にさしせまる。7、8年前に、母親が癌、父親が心臓発作で倒れたものの、今では元気にやっている。
長生きしてほしいと願う。しかし、運命は桜と同じ。いずれかは、散る桜のように、一生を終える時がくる。
命あるものそれは、避けられない。さらには、その最後の瞬間に立ち会うことも叶わないかもしれない。
もしかしたら、満開の桜を一緒にみる機会は、今日が最後になるかもしれない。明日は、どうなるかなんてわからない。
そんな私の思いとは裏腹に、相変わらずオカンは口うるさい。
アンタ、あれやったんか、これやったんか、とオカンの声が響き渡る。
「もう、ええって。うるさいねん」
と言いかけたが、同時にGさんの言葉がよみがえる。口から出そうになった言葉を飲みこみ、一息おいて、こういった。
「ちょっと、近所の公園に桜みにいかへん?」
すこし照れくさい。しかし、喧嘩するより全然いい。ああ、こうやって、散歩をするのはいつぶりだろうか。
咲き誇る桜を見て、オカンは子供のように喜んでいた。
アンタ、写真とって〜、とうれしそうである。
次の日は、オトンとドラッグストアに買い物にいくついでに、桜を眺めた。
どこか遠くにでかけるわけでもなく、近所をただ歩きながら、桜を見る。とても特別な時間。
来年も再来年も、近所の公園に、桜を一緒に見に行きたい。
飛行機の窓から見える景色をながめながら、両親と桜を眺めた春の一日を思い出すのだった。