子どもの習いごとのやめ時、どうしてる?習いごとを入れ替えまくっている我が家の判断基準。
「もう、水泳やめたいんだよね……。」
家の前で子どもと遊んでいると、たまたま通りかかった親子連れの会話が聞こえてきた。
お母さんと小学校低学年の女の子。
「そうねぇ、でも最後までやらないとねー」
お母さんは子どもの言葉を受け流し、子どもは下をうつむいたままぼくらの前を通り過ぎて行く。
子どもは習いごとを辞めたい。親は辞めさせたくない。
うちの子たちが3年生になると、こんな話をまわりからよく聞くようになりました。
親戚の子も嫌がりながらそろばんを5年間も習っていました。
親子で思惑が違うと、習いごとを辞めさせるタイミングって迷いますよね。
でも、実はもっと簡単に考えれば、お互い楽になるんじゃないのかなって思うんです。
◇
習いごとなんて、いつでも簡単にやめて、いつでも好きな時に始めればいいと思うんです。
我が家の習いごと遍歴を書きますね。
うちの子たちは、過去にプログラミング教室と書道と美術教室に通っていましたが、今は全部やめて水泳とECC(英語教室)と花まる学習会に通っています。
これもいつまでやるのか分かりません。
お金もかかるので、なにかを始めるならどれかをやめるというルールで習いごとの数を管理しています。
美術教室は年少から年長まで通っていました。ほとんど遊びみたいなもので、好き勝手に作品を作り楽しんでいたようです。
審美眼は子どもの頃に作られるという話を何かの本で読み、美術教室に入れたのですが、本人たちは遊びの延長で楽しんでいました。
ですが、小学校に入るとデッサン教室しかなく、お試しでやってみたら本物のニワトリのデッサンを1時間やらされイヤになったようです。それをきっかけに美術教室はすぐにやめました。
プログラミングはレゴを使うもので、遊びの延長で楽しんでいましたが、コロナがきっかけで休みがちになり、やめることにしました。
本人たちも未練がなかったようです。
書道は長男だけが通っていました。
2年生の担任が「字の丁寧さ」に厳しい人で、長男は字が汚く、宿題の日記に先生の厳しいチェックが入りまくっていました。
ある日、彼が泣きながら「字がじょうずになりたい…!」というので、近所の書道教室に入れたのです。
双子の次男もお試しでやってみましたが、驚くほどやる気がなく「ぼくはもういいっす」といった感じでした。彼は自分の字が汚いことを気にしていないのです。(親としては気にして欲しいけどしょうがない)
長男は書道教室の先生にビシバシ鍛えられ、あっという間に美しい字を書くようになりました。
学校では、宿題の日記でめったにもらえないS評価を連続でもらいご満悦でした。
これは本人の自信確立にかなり役立ったようです。この頃から泣くことが減り、自信を持った発言をするようになりました。驚くほどの変わりようでした。
水泳教室は次男からの依頼で始めました。
ぼくらとしては、習い事を増やすと送り迎えと費用が大変なのでイヤだったのですが、「なんでぼくは泳げないの?泳げるようになりたい」と言うので、しかたなく隣駅の水泳教室に入れたのです。
どうも去年の学校の水泳の授業で、水泳を習っている子たちがスイスイ泳ぐ隣で、自分が水に潜ることすらできないことが相当ショックだったようです。
夏になり学校で水泳が始まる前になんとかしたいとのことで、冬の終わりからスタートしました。毎回やる気まんまんで通っています。
そして、字がすっかり上手になり、書道教室に通う理由がなくなった長男も、次男と同じく、今年の夏こそは学校で無様な姿をさらしたくないという理由で、次男と同じ水泳教室に通い始めました。
二人とも自分から望んで習っているので、こっちがびっくりするほどいつでもやる気まんまんです。
ECCは3年生から英語の授業が始まるため、遅れを取りたくないという気持ちが本人たちにあるようで、彼らの希望で行くことになりました。
それから、おそらくですが、妻が韓国語の勉強を、ぼくが英語の勉強をしている姿を子どもたちは間近で見ているので、語学学習に興味を持ったのかもしれません。
そして、花まる学習会。
これはネットでググると「気持ち悪い」とか「宗教」とか出てくるので、始めるまでめちゃくちゃ不安でした。
これは合う子と合わない子にはっきり分かれると思います。
学校のような集団生活が苦手な子や、自己効力感が低く自信を無くしている子には合っていると思います。
うちの場合、次男がすっかり自信を無くし、劣等感に苦しんでいた時期があったんです。
双子の長男はなんでもそつなくこなす優等生タイプなのですが、お笑いタレントのような次男はいい意味でも悪い意味でも「テキトー」なところがあるのです。
ぼくと妻はそれでもいいと思うのですが、本人は長男に劣等感を感じ、ふさぎ込みがちになりました。
ぼくら夫婦は、三男が生まれるまでは、発言量が多い長男の相手ばかりしており、三男が生まれてからは三男のお世話に集中し、次男の心のケアを怠っていたのです。
次男はおとなしいタイプで、それでも平気なのかと思っていたのですが、ただ自分から発言することが苦手なだけで、本当は思っていることがたくさんあったんです。
彼の心の中に溜まった寂しさは小学校2年生の時に溢れ出し、突然泣き出したり、学校に行き渋ったり、情緒が明らかに不安定になったんです。
そんな時、何かの記事で読んだ花まる学習会がたまたま近所にあることを知ったぼくは、長男と次男を入れてみたのです。
先生は驚くほど丁寧に子どもたちの心に寄り添ってくれました。次男の心を解きほぐし、声をかけ、自信をつけさせていったのです。
小学校は30人の生徒に1人の先生ですが、花まるでは10人に満たない生徒に対し2人の先生が付き添います。
「子どもたちはみんないいものを持っている。それはみんな異なっている。それが何なのかを見出し、大切に育てていきたいんです」
先生はことあるごとにそう言います。その熱すぎる熱心さが、一部の人の目には宗教的に映るのだと思います。
ぼくら夫婦の次男への愛情不足の話を先生に相談したとき、ぼくは涙が出てうまく話せませんでした。
学校ではどうにもできないことが、ここならなんとかできる。花まる学習会と家庭で、ぼくらは次男の心に向き合い続けました。
次男は花まるに通ううち、みるみる自信を取り戻していきました。
2年生が終わる頃には、彼は持ち前の明るさを最大限に発揮し、すっかりクラスの人気者へと変貌していました。
国語の授業では、習った漢字を使って文章を作るのですが、次男の作る文章には独特の面白さがあり、先生もクラスメイトも彼に「もっと作って!」とせがみ、学校の廊下や帰り道でさえ「漢字のやつやって!」と何度も友だちお願いされるほどになりました。
◇
ぼくら夫婦は、子どもたちの必要性(スキルを身につけたい、自信をつけたい)に応じて、習いごとの取捨選択を繰り返してきました。
そして、子どもたちは「やりたい!」という気持ちが生まれた時に習い事をみずから選び、「必要ない」と思ったときにいさぎよく辞めてきました。
必要性と自主性を軸としてきたんです。
(もっと、続けたらどう…?)と思う時もあるにはあるのですが、いやいや行っても身につかないし、こっちも疲れてしまうんですよね。
「一度始めたら最後までやらないと」という親の場合、習い事を「精神修行」の一環として捉えているのかもしれません。
「最後までやり切る力」「粘り強さ」を身につけて欲しい。
ぼくもそれは感じます。
だけど、好きでもないことを続けることでは、「やり切る力」も「粘り強さ」も身につかないと思うんです。
「やり切った体験」が体感として自分の中にあるからこそ、他のことをやるときにもやり切れるようになりますよね。
やり切る力を身につけるためには、まずは「やり切った体験」が必要です。
そして、「やり切った体験」のためには継続が必要で、継続のためには動機が必要です。
そして、動機は「やりたい」という気持ちから生まれるんだと思います。
だからこそ、「やりたい気持ち」を生み出す「必要性と自主性」が、小学生の習い事の取捨選択の判断基準になるんじゃないのかなって思うんです。
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