『M』 〜本当の自分の“ことば”を歌う〜
浜崎あゆみ。
ある年代の人ならば、誰もが聞いたことがあるであろう音楽のひとつ。
その数あるヒット曲や名曲のなかで、自分の“記憶に残る”曲があった。
それが『M』。
彼女が1人のアーティストとして、
自分のなかで特別、大きな存在だったというわけではなかったけど、
いつだったか。
ヘッドフォンの中で、身を震わすようにその曲を何度も聴いていた。
そして時は過ぎゆき、往年のJ-Popのことなどすっかり忘れ去っていた頃。
家の近所のTSUTAYAで、1冊の新刊をふと目にした。
『M 愛すべき人がいて』(2019年8月)
小説のかたちを取ったノンフィクション。
結局、その中身は1ページも読んでないけど、
ayuが、自ら書き記した「自分の身を滅ぼすほど、ひとりの男性を愛しました」という帯のひと言で、
「あぁ、だからだったんだ‥」
20年近くもの歳月を一瞬でとび越し、すべてを理解した。
***
たとえどれだけ歌が上手くても、どれだけ良くできた詩であっても、
それが本物の“声”でなければ、本当には何も届いてこない。
空っぽなことば。
空っぽな表情。
空っぽな音楽。
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どこを見渡しても、そんなもので溢れるこの世の中で、
本当の自分の“コトバ”、
それを表すことができなければ、自分がここに存在している理由も、意味もない。
中学生や高校生の頃から、ずっとそんなふうに思ってきたものが、自分のなかにはある。
「自分ははじめから、すべて(“答え”を)知っている」
そのことは、わかっていた。
でも、そんな自分の“コトバ”を、この自分自身が掴まえることができず、
そんな自分の、言葉にならない思いを叫ぶこともできずに、
精神的にも、肉体的にも、
ギリギリの危ういところを、ずっとずっと彷徨いつづけていた。
鬱積し歪んだ思いや、自分の内外に向かう怒り、絶望にズタズタになっていた。
『M』には、そんな自分の心の厚い厚い壁をぶち破り、響いてくるものがあった。
その鬼気迫るようなサウンドと“声”は、
本物の肉声、魂からの“ことば”を刻んだものだったから。
***
千回に1回の歌が、
一万人に1人に届くことがあれば、
世界が変わることもある。
それを信じられずに、“歌”は歌えないんだ。
どれだけ歌が下手だったとしても、
ステージに上がって、歌を歌わなければ、
誰の胸(ハート)にも届かない。
ダメだったら何度だって歌えばいい。
歌い直せばいい。
自分の「本当の声」が出てくるまで。
それが本当に、目の前の人に届くまで。
***
ふとしたことから音楽出版権について調べていて、その流れでavexトップの松浦勝人が、CEOを退任(2020年6月)していたことを知った。
彼が「誰なのか」も知らずに、記事を読むと、
残りの仕事人生を、再び本来の「クリエイティブ領域」(プロダクション&“作品”を世に広めるための新しいテクノロジー事業)に専念する、と。
「誰も体験したことのないありえない感動を‥作っていきたい。‥わかりやすく言えば、現在放映中のドラマの頃の自分に戻るといえば理解してもらえるかな」と。
プロデューサーMasaと、アーティストAyu。
なるべき者が、本物の“星(スター)”となるために、1人の人間としての愛を犠牲にした。
その壮絶な悲劇が、結晶として産みおとした“最後のラブレター”『M』。
眠れない夜に、一本のラインが結ばれ、
なぜか観ることになってしまった『M 愛すべき人がいて』。
もう4時57分。
夜が明けはじめている。
2022年4月某日 記