見出し画像

業と輪廻


 業と輪廻は、自然科学で証明できないが、あると思った方が幸せである。

 東洋でいうカースト、西洋でいう奴隷については、古代から存在する、差別である。

 現代においても、みえない形で、人間以下かと思われる生活をしている人がいる事実はある。

 「生まれた時から、運命は決まっているのか。どうして、最下層の生まれなんだ。」

 生まれの運命からの救済が輪廻であり、前世でのよい行いが、生まれ変わった時に、カースト上位になれるという業があるのである。

 現代風にアレンジするべきは、カースト最下層の話である。

 カースト最下層には、人権がない、差別されているし、奴隷みたいなものだ。

 人間以下のカーストが存在するのは、今の世の中には適していない。

 カースト最下層であれど、カースト上位の人間と仲良くできる、ともだちになれる。

 才能のある人は、好きなものになれるとするのが、現代風であろう。

 カースト最下層が出てくるのは、仕方のない話ではある、世の中、できる人間とできない人間がいて、できる人間が、上になるからだ。

 救いのない話だ。

 受け入れるしかない。

 できない人間は、できないを受け入れて、幸せに生きるしかないだろう。

 できないを最下層として、差別することが、問題なのである。

 いじめの問題にも起因する事だ。

 貧乏人を人として認めよ。

 他人に危害を加えるな。

 貧乏人でも幸せになれる。

 貧乏を認めて、受け入れれば、ご機嫌に過ごしていけるのである。

 金持ちの人だって、貧乏人と仲良くできるし、人にとって大事なことは、人と人との、仲なのだ。

 今、上手く行っている人だっていつ、ダメになるかわからない。

 今、上手く行ってない人だって、いつ、花が開くかわからない。

 人は、生老病死を抱えているし、逃れる事はできない。

 貧乏であろうが、なかろうが、人は、受け入れさえすれば、ご機嫌でいられるのだ。

 他人に好かれる事は、金だけじゃない。

 人と仲良くなるのに、金が必要なわけじゃない。

 一緒にいて楽しいから、話したり、仲良くするのである。

 金で、心は買えない。

 貧富の差は、幸せの差ではない。

 物質が豊かでも、心が豊だとは限らないし、金持ちが幸せとも限らない。


因縁

あらゆるものは、因縁でできている。

元素や、素粒子で、時間、空間でさえ、因縁でできている。

因縁がなくなると、元素はなくなり、素粒子はなくなり、時間はなくなり、空間はなくなる。

例えば、自分の身体も、タンパク質や、脂肪、核酸が組み合わさり、臓器や、神経、皮脂となり、できているが、因縁が失われれば、無になるのである。


色不異空、空不異色、色即是空、空即是色

般若心経の、一節である。

目に見えるもの、形づくられたものは、実体として存在せずに時々刻々と変化しているものであり、不変なる実体は存在しない。因縁が失われれば、たちまち現象は消え去る。

変わらぬものはない、因縁が失われれば、無だ。

というニュアンスである。

色不異空、空不異色は、「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」という、方丈記の一節と通ずるものがあると思う。


因果、縁起と、運命

因果、すなわち、縁起とは、行いである。

運命とは、結果である。

よい行いをすれば、よい結果が出る、わるい行いをすれば、悪い結果がでる。

いい行いをして、よい結果を得るのが、幸せではないだろうか。

いい縁起には、いい運命が付いてくるということだ。

だから、いいことをした方がいい。

綺麗ごとでも、なんでもないのだ。


老壮思想

無為自然であれ。

社会が不自然になるのは、人の為す事の仕業である。

自然の儘に生きる方が、よい。

エゴによって、為すことは、不自然な社会を作り出す。

みんなが納得のいく形でというのは、エゴである。

自然な形であれ。

和光同塵であれ。

人間の徳だとか、善悪は人為、人の為すものである。

悪も善も、すべてを、相対的に受け入れろ。

無一同

すべては、無からはじまった。

なにもないとは、自然である。

善も悪も、同一である。

善がなければ、悪もないからである。

あらゆるものは、無であり、一つなのだ。

無が、有を生み出す、根源なのである。

万物斉同

道の境地に立てば、すべてのものは、同一である。

道とは、すべてを超越したところのこと、人格はないが、ただ、存在する。

万物を生み出す無があり、無から有が生み出される。

無も有の対極であるから、無の最初があるはずなのである。

つまり、最初の最初があるはずだ。

最初の最初は無限である。

無限は、有も無も包括する、存在である。

斉死生

運命のすべて、受け入れろ。


西洋の哲学

西洋の哲学は、ギリシャから、はじまった、以前からも、あるが、ギリシャ哲学からはじまる、ものについて考える。

ギリシャで始まったのは、自然現象や、人間心理、認識の解明であった。

万物の根源であるアルケーは何かを考えた。

認識の根源である、クオリアについて、考えた。

ソクラテスは、よく生きることを求めた。

プラトンは、魂の目によってみえる、イデアを探求した。

アリストテレスは、それが何であるのかを探求して、自然科学を打ち立てた。

自然科学とは、再現性のある、実験、観察によって、普遍性のある法則をみつけ出す事である。

自然科学は、自然を解き明かす、叡智である。

ギリシャの滅亡で、生まれた自然科学の精神や、深い哲学、芸術は、一時期忘れられていた。

ルネサンスという動きがあった。

ギリシャの文化を、再現していく流れだ。

ルネサンスの時代は、キリスト教の時代だった。

キリスト教は、愛であるが、人間のエゴにより、戦争利用されたり、考えの違いで、殺し合いになったりしていた。

自然科学は、キリスト教との戦いになってしまった。

大航海時代の、植民地作りのエゴと自然科学が、混ざり合い、人との殺し合いや、自然破壊に、利用された。

本来の自然科学は、解き明かす事、人間の探求心と、己を知る事にあったのに、どうして、人は、悪魔になれたのか。

自然科学の精神は、一気に普及し、神は死んだ。


近代以降の、主義

近代以降の、西洋の哲学は、基本、幸せにはなれない。

エゴによって作られた、大衆を操作するための、口実に過ぎないからだ。

資本主義

勝ち負けがある。

勝てる人が多いときはいいが、負ける人間が多くなると、たちまち崩壊する。

不幸な人間が出てくるし、人を、利用して、お金を稼いでやろうという考えは、誰も幸せにならない。

共産主義

大衆操作である。

みんなで、作って、平等に、分かち合うのだという。

しかし、特権階級が存在するし、計画通りに事が運ぶとは限らない。

万物は、常に、変化していくのだ。

特権階級の人間は、大衆が貧乏になっているのに、ちゃんと分配せず、自分だけが助かろうとする。

つまり、都合のいい事をいって、人を支配する事が前提になっているのだ。

分配をする人間が、ちゃんと分配できるとは限らないのだ。

強制して、監視し合う世の中に、幸せなど、あるのだろうか。

全体主義

一人のカリスマが、支配するというものだ。

完璧な人なんて、存在しない。

失敗のツケを払うのは、その他大勢の大衆なのだ。

共通の目標に向かって、他人を強制して、働かせる事に、幸せはあるのだろうか。


いがみ合いと、殺し合いの結果である。

どうして、争う必要があるのか。

許せばいいのだ。

大事なのは、心の持ち方なのだ。


西洋哲学から、学ぶべきことは、純粋な自然科学だけであり。

利用することを考えてはならない。

自然科学は、人間のよい心により、いい運命を生み出すことができる。

探求すること、理を知ろうとすること、外を知る事で、己は何かを知ろうとする、人間の心の探求が、大事なのだ。


戦うな、許せ。


   日本は、貧しくなっている。

 もうあと、10年もすれば、破綻するだろう。

 破綻しても、崩壊を防ぐことはできる。

 許すことだ。

 すべてを許せ。

 貧乏を許せ、もう、戦おうとするな。

 みんな仲良くすればいいのだ。

 貧乏人は、品がなくて、金持ちの足を引っ張って、汚らしいという人もいるだろう。

 家のものが盗まれるのではと考えたり、社会に暴力を振るうのではないかと心配になる人もいるだろう。

 心が豊でない証拠だ。

 金を稼いだやつが、えらい、戦えという考えは、破滅を生み出す。

 結果として、人を騙して稼ぐ人が出てきたり、他人を利用しようとしたり、打ち負かしてやろうとする考えが横行するのだ。

 人から、金を取って稼ごうとしても、不幸になる人間が増えるだけだ。

 もう、戦うな。

 許せ。貧乏を受け入れろ。

 人の上に立とうとするな、権力にしがみ付こうとするな。

 もう、権力を手放せばいいじゃないか、権力がなくても、幸せに生きていける。

 心さえ、豊かであれば、裸だって、楽しいのだ。

 ご機嫌に、歌を歌って生きて行けばいい。

 人と会話をするのに、常に、言い負かされてはならないだとか、足元をすくわれないだろうかと、恐怖する世の中に、幸せはあるだろうか。

 無害になればよいのだ。

 大丈夫な人だと思われた方が、幸せだ。

 人が嫌がる事はしない、人が傷つくことはしない。

 すぐ、謝る。

 思いやりを持つ。

 大切な人のために、自分を犠牲にできる。

 きれいごとでもなんでもない、幸せなのだ。


 
 例えば、今の時代は、インターネットでも、言い争う。

 言い争って、幸せになる人間は一人もいないのだ。

 許せ。

 間違いを許すしかないのだ。

 相手にも事情があったのかも知れない、親に虐待されて育ってきたとか、彼女に振られたとか、彼氏が、浮気してたとか、いろんな事情があって、心が不安定なだけかも知れない。

 許せ。許せば、相手も許してくれるかも知れない。

 言い返すと、もう修復することは難しい。

 許して、コミュニケーションを取るしかないのだ。

 今の10代~30代の人たちは、戦う事をやめる考えを受け入れやすいと思うし、実際、やめていくだろうと思う。

 しかし、問題は、中年~年寄りなのである。

 権力の中枢は、中年~年寄りが握っている。

 国は傾いていく。

 中年~年寄りは、戦いをやめられないのだ。

 理由は、高度経済成長期とバブルの価値観が抜けてないからだ。

 日本を世界第二位の大国にしてきたのは、自分たちだ、もっと、稼がないとダメだ、戦わないとダメだと思っている、頭に刻み込まれているのだ。

 他人を蹴落としてでも、自分は幸せにならないとダメだ、なるんだ、特別になるんだと、頭に刻み込まれている。

 もう、とっくの昔に、バブルは崩壊して、戦う世の中じゃ、上手くいかない事がわかっていても、戦おうとするのだ。

 高度経済成長期、バブルの時は、勝てる人間が多かったから、競争と戦いの世の中で上手く行った。

 勝てる人間が多いと、景気がよくなって、巡り巡って貧乏人も得をするからだ。

 日本は特別だった、貧乏人も、裕福になりやすかった。

 しかし、万物はうつろうもの、変化するものだ。

 ずっと続くわけではない。

 競争は敗北者を生み出すし、勝ちにくくなっていく。

 結果、勝ちにくくなった、かつての勝者たちは、権力維持体制に入ったのだ。

 中年や年寄りのひとたちが、戦いを続け、上を埋めるから、10~30代は、将来に希望が持てなくなる。

 戦いを強制するから、生きにくさを覚えて自殺するし、子供を産む事もできず、少子化が進んでいく。

 権力を手放せ、貧乏になることを受け入れろ。

 世の中は、変わることのできないまま、破滅へ向かっている。

 けれど、中年~年寄りと、10代~30代を分断してはならない。

 10代~20代前半と、中年~年寄りの間にある、分断と対立の原因は、テレビとインタネットの対立でもある。

 10代~20代前半は、インターネットが当たり前にある世界で育ってきたが、中年~年寄りは、テレビで育ってきているのだ。

 テレビの話しかできない、中年~年寄りと、インターネットの情報を元にして、話をする10代~20代前半で、対立が起こるのはわかる話だ。

 僕自身、親や祖父母と、話が嚙み合わないことに悩まされたことを多い。

 人間に残されたのは、コミュニケーションだ。

 話が合わなくても、合わせにいけ、テレビにない情報を、それとなく、伝えていくしかない。

 インターネットのはやい、情報と、現状をありのままに、伝えていくしかないのだ。

 どれだけ、中年や年寄りに、罵倒されても、厭な事を言われても、許せ。

 すべてを許して、ご機嫌でいるしかない。

 心を開かせないと、ずっと、戦おうとしてくる。

 足元をすくわれないかと、中年や年寄りは不安なのだ。

 だから、出る杭を打つ。

 いいんだ。打たれればいい、許す。

 許して、仲良くなるしかない、話せるようになることが、スタート地点なのだ。

 戦ってはならない。

 コミュニケーションをとる、少しずつ、世の中を変えていく、しかない。

 ちゃんと向かい合う必要がある。

 中年~年寄りは、勝つために手段を選ばないかも知れないし、きくみみを持たないかも知れない、目の敵にされてしまって生きにくくなるかも知れない。

 自分を犠牲にできず、権力維持に入って、現状が、変わらないかも知れない。

 それでいい。

 少しづつ、コミュニケーションを取っていくしかないのだ。

 許す。

 認めて、話すしかない。

 苦しいが、10代~30代が、中年~年寄り無視をするだけでは、本当に、日本は、崩壊してしまう。


追記 8月18日

輪廻と業については、現代風にアレンジする必要があるでしょう。

地獄に落ちるとかはダメです。

あと前世の行いが、悪いから、今、不幸な事が起こっているのだとかもダメですね。

前世の事を言われても、どうしようもないので、無理な話です。

大事なことは、生まれを受け入れることです。

貧乏な家や、親が酷い虐待をする家があります。

世界では、生まれてくる子供たちの多くの命は、消えてなくなります。

大人になるまでに、失われてしまう子供の時間もあります。

大人たちに、子供である時間を奪われることもたくさんあります。

けれど、受け入れて許すしかないということです、恨んで復讐しても不幸になるだけなのです。

輪廻は、魂の巡り合いです

よい行いをすると、死んでから、後の世界に、いいことあるかもねという感じでいいです。

勿論、自分が生まれ変わるわけではないです、自分のやったこととかが、後世に少なからず残っていくので、想いは紡がれていくということです。

心の輪廻とでもいえばいいでしょうか。

深く考える必要はありません。

よいとかわるいとかは、時代によって変わりますが、人の嫌がることをしないとか、他人を傷つけないとか、本当に単純なことでいいと思います。

死んだら終わりだと考えると、自分本位になって、どうも、世の中が煩雑になっちゃって、私利私欲に満ち溢れちゃうような気がするのです。

誰かの為に、自分を犠牲にできる人がいたとして、死んだら終わりだとすると、あまりにも、酷ではないでしょうか。

死んで救われた命もあると考えると、死んでからはじまったと考えることもできます。

救いではないでしょうか?

巡り巡る愛があるような気がするのです。

輪廻は、意識のすべてが、巡るわけではないでしょうし、死ねば、己自身は失われるでしょうが、心は残ります。

誰かの心に残りますし、ずっと巡ってます、死んでからも、他の誰かの心で生き続けますし、語り継がれます。

それが、輪廻です。

輪廻を、他人を操ったり、自分の意のままに操る為の口実に使う人たちもいますが、誰も幸せにはなれません。

科学にしろ、輪廻にしろ、愛にしろ、使い方を間違うと、悲劇を生み出します。



 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?