【ニブセキの息子】当たり前が当たり前でないことをかみしめて
立ったり、歩いたり、おしっこをしたり。できて当たり前と言われることをするのに苦労をしたり、手間がかかったりする人が、世の中にはいる。二分脊椎症という生まれつきの課題をもって生まれた我が息子2歳を育てていると、痛いほど分かる。
当たり前は、当たり前ではない。妻の妊娠中も含めれば、3年以上、それを噛み締めてきた。
3歳を前に
今月に入ったあたりから、息子は装具をつけた状態ならば、長い間立ったり、数十歩を歩いたりというのができるようになってきた。数歩というのはそれまでもあったが、長い間というのはなかった。その瞬間はあまりにも突然で、息子がうれしそうに姿を見せてくれたときには、驚いてしまった。
この土日には海辺の旅館へ家族旅行に行ったが、館内の畳敷きのフロアもスイスイと歩いてしまうので、なんだか拍子抜けした。
毎日の努力もあるんだろうけど…
でも、違う。これは、毎日の努力、それと巡り合わせなんじゃないかと思う。
装具を毎日着脱したり、リハビリを息子が苦にせず地道に繰り返してきたのは、確かに奏功したと思う。
ただ、二分脊椎症、特に我が息子が生まれてすぐ手術をした「脊髄髄膜瘤」という腰のコブは、脊髄のどこにコブができたかによって、将来に影響を与えるパーツが割とはっきり決まると言われている。それは、運みたいなものもあって、努力でどうにかならない部分もあると思う。
向き合い方は変えずに
歩けるようになっても、排泄面での問題に向き合っていく必要があるのは変わらない。現状、導尿も浣腸も、それだけで地味に負担がある。私たちもだし、息子も嫌だろうと思う。それとは上手に付き合っていかないといけない。
装具も、おそらく長いことつけなければいけないのは変わらないと思っている。
「歩けるからいい」という考え方はしたくない
それに、障害のある子どもの親としては、「歩けるからまだよかった」という思考はしたくない。
歩けないからこそ見えるもの、他人にはできない発想ができることがあると思う。それは個性であり、強みだ。たとえば、息子が興味をもっている車だって、そういう視点があれば、ひょっとすれば、福祉車両を開発する道に進めることがあるかもしれない。
歩けるに越したことはないかもしれないけど、歩ければそれでいいというのは、違うと思う。
息子にしか見えない世界、発想を大切にしたいと思うのだ。そのマインドは、これからも変えずにいたい。