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変えられぬ態度,柔軟な態度

先日,たまたまふとしたところでドーキンスの名前を目にしました。『利己的な遺伝子』からだいたい一連の著作は読んだと思うのですが,思い出した一節が次のものでした。

研究者というものはこうありたい,でもこうあることというのは,とても難しいと思わせる一節です。

私は以前に,私が通っていたオックスフォード大学の動物学教室で,敬愛されていた長老のエピソードを披露したことがある。長年のあいだ彼は,ゴルジ器官(細胞内部にある顕微鏡で見える構造)というのは実在しない人為的なもので,幻想にほかならないと,熱烈に信じていた。毎月曜日の午後は教室全体で集まり,外部から招いた講師の研究発表を聞く習慣になっていた。ある月曜日,講師がアメリカの細胞生物学者だったとき,彼はゴルジ器官が実在のものであるという完璧に説得力のある証拠を提出した。講演のあと,かの長老はホールの前方に進み出てそのアメリカ人と握手し,興奮もあらわに,「いや先生,私は君に感謝したい。私はこの15年間ずっとまちがっていました」と言った。私たちは手が赤くなるまで拍手した。原理主義者は誰もそんなことは言わないだろう。実際には,すべての科学者がそんな態度を示すわけではないだろう。しかしすべての科学者は,それが理想であると口先では同意する---たとえば政治家であれば,そんなのは節操がないと言って批判するところだろうが。いま述べたこの出来事を思い出すと,いまでも熱いものが胸にこみ上げてくる。(p.416)

私たちは誰かの何かを批判すると,どうしてもそこから対象を拡大していきがちです。その人が行ったことだけでなく,そのようなことを行った人物,その人物が行った別のこと,そして下手をするとその人物が所属している集団,家族,民族,国家にまで。本来,その拡大した認識には正しくない歪みがあるのですが,そのことにはたいてい無自覚です。

そして,いったん態度が決まると,その態度を覆すのは簡単ではなくなってしまいます。なぜなら,その態度に合うように,理屈が立つように,矛盾がないように,説明を組み立てていくからです。その牙城を崩すのは,容易なことではありません。自分で組み立てた立派な城を自分で破壊するなんて,できればそんなことはしたくないものです。

でも,時にはそのようなことが必要になることもあります。できればそういうことに柔軟でありたいものです。

そう,そう思ったのは,最近この小説を読んだこともあるのかもしれません。「天狗になる」という言葉どおり,信じるもの以外,何も受け入れることが出来なくなってしまう人物が出てくる物語です。書評を見るとそこがいまいちに感じる人もいるみたいですが,自分は楽しめました。時代の変化に伴う価値観の変化というのは,以前は今以上に明瞭だった,という経験を少しはしていますので。

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