我慢できないのはどっち?
夏になると寝苦しくもなりますし,子どもたちがなかなか寝てくれません。寝室に行ってしばらく経つのに,ずっとケラケラと笑い声が聞こえてきます。
母親が「もう!」と半分怒りながら寝室に向かいます。足音が近づいてくると,子どもたちは「きゃー!」とかん高い楽しそうな声をあげて,さらに足音が近づくと静まりかえります。
「こらー!早く寝なさい!」と母親が入っていくと,ふたたび「きゃー!」という叫び声と笑い声が聞こえてきます。
小さな子がいる家庭では,よくある光景ではないでしょうか。
効果はあるのか?
さて,せっかくの微笑ましい光景なのですが,それに水を差すようなことを考えてみたいと思います。
それは,この母親は本当に,子どもたちを早く寝かしたいのか,という問題です。果たして,この母親の行動は,子どもたちを早く寝かしつけることに効果を持っているのか,と言い換えても構いません。あるいは,実際にこの子どもたちは親が望むように早く寝てくれるようになるのか,と言っても良いでしょう。
なかなか寝てくれない
子どもは,親の言う通りの行動をとってくれないものです。言う通りにしてくれたら,どれだけ楽なことでしょうか。でも,そうはいきません。
寝なさいと言っても寝ませんし,静かにと言って静かになるとは限りません。勉強だって「勉強したら?」と言ってすぐにしてくれるなら,そんなに楽なことはありません。
でも,言えば聞き入れてくれる,と思ってしまうのはなぜでしょうね。
自分だって
それは,自分だってそうだったはずなのです。私もそうでした。親に「勉強しなさい」と言われれば言われるほど,勉強をする気が失せていったものです。
なのに,自分が親になると「言うことを聞くものじゃないの?」と思ってしまうのは不思議なことです。
自分のことは棚に上げてしまうのですよね。自分勝手なものです。
行動の増減
「そうしなさいと言ったでしょう」というセリフは,半分は言い訳のようなものです。
「自分はそうしろと言ったのだから,もうあなたがそうしないのはあなた自身の責任です。もう私は知りませんよ」というのが,そのセリフの裏に隠れているセリフです。
本当に相手のことを考えているのなら,実際の行動の変化を確認するはずなのです。だって,「そうしてほしい」からそれを言うのですよね?実際に行動が変化しないのなら,それは相手のせいなのではなく,指示のしかたが良くないのではないでしょうか。
体罰も同じ
体罰も同じことだと思うのです。それをすることで,本当に望むような行動の変化が生じるのでしょうか。望むような行動の変化が起きているように見えたとしても,それは本物なのでしょうか。
「本当に変化が生じているから効果はあるんだ」と言うかもしれません。しかし,もしかしたらそれはたまたまそうなっただけなのかもしれませんし,それをしなくても生じていたのかもしれません。相手の技術や能力や怠惰が変化したのではなく,無理やり帳じりを合わせているだけなのかもしれません。現実をちゃんと知って評価することは簡単ではなさそうです。
「実際に体罰を使わないとやっていけないじゃないか。何を甘いことを言っているのか」と言う人もいそうです。現場で苦労されている指導者のことも,十分に想像できます。でも実は,その指導者だけの力量に任せるのではなく,体罰を使わないで,全体の指導の統一や工夫や環境の整備をするだけでも,行動は変わっていくはずなのです。
体罰はいけないと言うと,「では厳しく指導してはいけないのか」と考えがちなのも不思議です。もちろん,厳しく指導して,何年も経ってからその意味を理解する,ということもあり得ます。
でもその厳しさの中に,暴力や人間性を否定するような言動が加わる必然性は全くないと思うのですよね。厳しく指導することが,人格の否定と同じ意味になってしまうのも問題なのかもしれません。
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