研究を継続させるやる気
今回は,「面白いから研究をするんだ」という話を聞くと,どうして「そういう研究なら趣味でやれ!」ということを言い出す人が出てくるのか,という問題について考えてみようと思います。
研究の話をすると必ずと言っていいほど聞かれるのが「それは何の役に立つのですか?」という疑問です。
この疑問を耳にするたびに,私が思う疑問は「誰にとって役に立つという答えを求めているのだろう?」ということと,「どういうことを役立つと想定しているのだろう?」ということです。
必ず役に立つ
研究はどこかで必ず誰かの役に立つものです。
少なくとも,その論文を読んだ研究者や大学院生,学生にとっては何かの役に立つはずです。研究者はそこから新たな研究のアイデアを手に入れるかもしれませんし,大学院生はそこから論文の書き方を学ぶかもしれません。また学部生がその学問に興味を持つきっかけを与えてくれるかもしれません。もしかしたら「これはやめておこう」という方向で,反面教師としての意味で役に立ってしまうかもしれません。
そういうことではないのですか?でも,それもひとつの「役に立つこと」だと思います。ですから「役立つ」という言葉を使うときには,「誰にとってどういう役に立つことを想定しているのですか?」ということを明確にすると良いと思うのです。
ただしそれを明確にすることは,最初からある程度,答えを限定するものです。そして,「この人はこういうことを役立つと想定しているんだな」ということを宣言することも意味してしまいます。
研究をする動機づけ
研究者が研究をする動機づけは,どういうところにあるのでしょう。
やはり,「面白いから」とか「興味があるから」という動機づけが中心ではないでしょうか。こういう動機づけのことを,内発的動機づけといいます。
ある程度はこういう動機づけにもとづいて活動をしていないと,研究をする行為として長続きしないのではないかと思います。趣味でも同じですよね。誰に強制されることもなく,自分の興味・関心に従って自由な時間をそれに充てるのが楽しく,それを趣味というのです。
研究はもう少しオフィシャルな活動ですし,研究をすることで社会的地位を得たり職を得たり金銭を得たりすることにもつながります。「よりよい社会のため」「困っている人を助けるため」「未来のため」に研究を行うことも,もちろんあります。しかしそれと同時に平行して,「これは面白い」というエンジンがないと,どこかで力尽きて止まってしまいそうでもあります。
さらに,このあたりの動機づけは変化していくものです。研究職に就く前は「職にありつくため」の研究だったものが,職を得ると「誰かの役に立つため」になり,そのうち「楽しい」と思えるようになるといった具合です。
外発的動機づけ
内発的動機づけの対極にあるのが,外発的動機づけです。これは報酬や罰によって動機づけられるありかたです。
「お金がもらえるから勉強する」「褒められるから勉強する」「怒られるから勉強する」「成績が下がるとお小遣いが減らされるから」など,自分以外からもたらされる報酬や罰が行動の原因だと認識されます。
学生の話を聞いていると,意外と「良い成績をとると小遣いがもらえた」というケースがあるのです。そのような場合,その報酬がなくなると行動が続かなくなりがちです。大学に入学すると「もう小遣いがもらえないから勉強しない」となってしまうかもしれません。
外発を分ける
外発的な動機づけをもっと広い観点から見ると,いくつかの段階に分けることができる,という話があります。
◎外的動機づけ:報酬や罰による。
(例)「褒められるから」「怒られるから」
◎取り入れ的動機づけ:不安や恥,自己価値による。
(例)「やらないと不安だから」「やらないと恥ずかしいから」「やると安心するから」
◎同一化的動機づけ:重要性や価値観による。
(例)「将来役に立ちうそうだから」「目標を達成するため」
◎内発的動機づけ:活動それ自体が目的。興味・関心による。
(例)「面白いから」「興味があるから」
この4つの段階は,外的⇔取り入れ⇔同一化的⇔内発と順番に並んでいて,自己決定性や自律性の程度が異なっていると解釈されます。外的動機づけがいちばん自己決定性が弱く(外からの報酬や罰の要素が多く,自分で決めるという要素が少ない),内発的動機づけがいちばん自己決定性が強い(自分自身で決める要素が大きい)というわけです。
外発から内発へ
できれば,子どもたちに内発的な動機づけを持たせて,自分自身で行動して勉強したりいろいろな活動をして欲しいですよね。
でも,それがそうそう簡単ではないことは,親も教師もわかっていることです。
そこで,さっきの隣り合った動機づけに注目します。「外的⇔取り入れ⇔同一化的⇔内発」という順番です。
この論文で示されているように,隣り合った動機づけは関連が強く,離れた動機づけは関連が弱いことがわかっています。
ということは,最初は外的な動機づけから始めたとしても,それが取り入れ的動機づけになり,同一化的動機づけになり,内発的動機づけへとだんだんと変化していく可能性があるということなのです。
怒られるよ!
電車の中で子どもに向かって「そんなことをしていたら怒られるよ!」と注意をしたりするのを目にすることがあります。自分の子どもにも言ったことはある……かな。
この「怒られるよ」というセリフからもわかるように,実際に怒っているわけではありません。「いまは怒られていないけれど,そうしていると怒られるよ」と,未確定な未来のことを言っています。
こういったセリフが,外的動機づけを取り込ませて取り入れ的動機づけにしようとする意図の反映ではないでしょうか。
◎それをやると実際に怒られる
→ これをするのは恥ずかしいことで怒られるかもしれないことなんだ
という,外から与えられる罰を子どもの中に取り込ませようとしているのです。
受験の場合
大学受験の場合,よくある動機づけは「この大学に入学するために勉強する」ですよね。これは目標を達成するための動機づけですから,同一化的動機づけです。「○○のため」という理由づけは,同一化的動機づけにあたるやり方です。
やはり受験をクリアするためには,こういう動機づけが不可欠かもしれません。「親や先生に怒られるから」とか「勉強しないと恥ずかしいから」という動機づけで大学受験をクリアするのは,想像するだけでもなかなか難しいのではないかな……と思います。
大学入学後
そして大学に入ると,「大学に入るため」という同一化的動機づけの目標は達成されます。
すると,教師になるとか医師になるとか,さらに先の目標があれば別ですが,多くの場合は入学することで動機づけの源泉がなくなってしまうのですから,勉強をしなくなるというわけです。
そこで大学に入学したあとで,「この学問はこんなに役に立つのですよ!」とさらなる同一化的動機づけを呼び覚まそうとしたり,「この学問はこんなに面白いのですよ!」と,学生の内発的動機づけを喚起しようと大学教員は意気込みます。
しかし,そこでうまく動機づけが喚起されればいいのですが……なかなか難しいのが現状ではないでしょうか。
自己決定の程度と成績
どのような動機づけが成績を伸ばすのでしょうか。
研究では基本的に,内発的な動機づけに近づくほど学業成績が向上することが示されています。
こういう研究結果を目にすると,やはり内発的動機づけを高めたいな,と思いますよね。でも,興味・関心の幅が狭いときには,「自分の関心がない教科の勉強には身が入らないのでは」ということがあるという話も耳にします。「英語は興味があるけど数学には興味がわかず勉強に身が入らない」といったケースです。
問題は,内発的動機づけがどこまでの興味・関心の範囲をカバーするかです。
いずれにしても,動機づけをうまく使うことができると良いことがありそうです。
何のために
このように見てくると,「何のために研究するのですか?」という問いは,同一化的動機づけに基づく問いだということがわかります。
もちろん,そういう動機づけに基づく研究活動はあります。しかし最初にも言ったように,「面白いから」という動機づけの研究活動もあります。学校の生徒たちにはそれを求めているのですし,実際にそういう動機づけは行動を継続させます。
ただし,「面白いから」という内発的動機づけは「趣味と同じ」でもあります。そこで,「面白いからやっている」という発言を耳にしたときに,「何の役にも立たないなら趣味と同じだから自分だけでやれ」と言い出す人が出てくるというわけです。
仕事が楽しいわけがない
もうひとつは,仕事をしているのに「楽しい」と言う人の話を聞くと,それを攻撃したくなる気持ちです。
それは,「仕事とは苦しいものであるはずだ」「勉強というものが楽しいはずがない」という先入観の表れであるようにも思います。これは,妬みの一種なのでしょうか。そしてそれを攻撃し,一矢報いると「ざまあみろ」とシャーデンフロイデ的な達成感がもたらされるというわけです。
楽しくてもいいじゃないか,と思いますしそれが理想ではないかとも思うのですが,「そんなはずはない」と考えてしまう原因はどこにあるのでしょうね。これについては,またどこかで書いてみたいと思います。
いずれにしてもこのあたりのズレが,研究者と世間とのズレにもつながっていくのかな,と思ったりすることがあります。
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