不連続精神と連続精神
以前にも,リチャード・ドーキンスの『悪魔に仕える牧師 なぜ科学は「神』を必要としないのか』を紹介したことがあります。
今回も,その一節を取り上げてみたいと思います。
不連続精神
それは,次の一節です。
この思考法は,私が“不連続精神(マインド)”と呼びたいと思っているものを特徴づけている。私たちは誰も,身長180センチメートルの女性は背が高く,150センチメートルの女性は高くないことに同意する。「高い」とか「低い」のような言葉は,私たちを,世界を定量的な階層構造に押し込みたいという誘惑に駆り立てるが,このことは世界が本当に不連続な分布をしていることを意味するものではない。あなたが,ある女性の身長は165センチメートルだと言い,この女性は背が高いのかそうでないかを決めてくれと私に頼んだとしよう。私は肩をすくめて,「彼女は165センチメートルで,これであなたの知りたいことが伝わっているわけじゃないのですか?」という。しかし,少しばかり戯画化して言えば,不連続精神の持ち主は,その女性が背が高いか低いかを判定するために(高い費用をかけて)裁判所に行くだろう。実際には,戯画だという必要さえほとんどない。何年ものあいだ,南アフリカ政府の裁判所は,さまざまな比率で混血している特定の個人を,白人,黒人,「有色(カラード)」と呼ぶべきかどうかを裁定する活発な駆け引きをおこなってきたのである。
私たちは,物事を判断するときに,不連続に思考しがちです。「高い」か「低い」か,「価値がある」か「ない」か,「よい」か「悪い」か,などなどです。不連続に物事を考えてしまうことで,変化を認めにくく,いったん決まったことは変えがたく,ほんの少ししかない違いでも過剰に違いを見て取ってしまうことへとつながる可能性があります。
自由に思考できること
このような話をしていると,「いつでもこう考えるのは難しい」という感想を抱く人もいるようです。でも,そうではないのです。いつでも連続的に考えなければいけないわけではないからです。
ただし,ときにこのような「分類」は,物事を考えるときに役に立ちますので,このような思考方法自体がよくないというわけではありません。
カテゴリカルな思考も,連続的な思考も,どちらも自由に行き来できることがいいのではないでしょうか。ものごとを「どのように考えるか」は,一種の道具のようなものです。たとえ考える道筋であったとしても,道具は自由に使いこなしたいものですよね。
二分法的思考
実は,このドーキンスの本だけではないのですが,これを含む何冊かの本からアイデアを得て,二分法的思考の研究をおこなったという自分自身の昔話も思い出しました。
読書をすることも,研究のヒントになっていくものです。
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