「連載小説」死神皇子と赤ずきんの少女②

市長の取り締まり

「君がゲヘナ・リンツだね?」

突然後ろから声がした。
もう随分と長い間呼ばれることのなかった自分の名前。
それを呼ぶ何者かが、背後に立っているのである。
慌てて振り返った。
身体が大きく身なりの良い男がいた。
禿げ上がった頭と、その代わりに立派にこさえたあごヒゲ。
上質なスーツと毛皮のコートを着用していた。
格好だけでも一般人ではないことがわかる。

この方は確か…。
少女は男に見覚えがあった。
否、この街に住む人間ならば、彼のことを知らない者はいないだろう。
彼は市長のアンドレイである。

「御機嫌よう、市長さん」

少女は畏まった挨拶をした。
だが市長はすぐに彼女の挨拶を遮った。
高圧的な態度で

「挨拶はいい。質問に答えてくれ」と言った。

何かまずいことを言ったのかしら。
リンツことマッチ売りの少女は不安になる。
ゆっくりと二、三回頷くことしかできなかった。
気まずい空気が数秒の間、場に漂う。
その空気に耐えかねて、先に発言をしたのはリンツの方だった。

「私がゲヘナです…。ゲヘナ・リンツです。……何かありましたでしょうか?」

緊張で手のひらに汗が滲んだ。
喉は一瞬でカラカラに乾く。
しかしリンツが答えると、意外にも市長は一変して微笑を浮かべた。

「おお、それはよかった!」

リンツは狐につままれたような気分になった。
思わず呆然としてしまう。

「この辺りでマッチを売っている者がいるという噂を小耳に挟んだので探していたのだよ。我々も戸籍のないものに声をかけるのは中々難しくて…。随分と苦労したよ。あ、いやいや、気にしないでくれ。こっちのはな…」

「まさか、わざわざ私を探してくれたのですか?」

肩の力が急速に抜けるのを感じる。
矢継ぎ早に質問した。

「そうだ。私は君を捜していた」

「あ、ありがとうございます市長!」 

「謝辞などやめてくれ。……それより話を続けよう。いつからここで物を売っているのだい?」

「えーと」

リンツは失礼のないよう赤ずきんを取り、顔を顕にした。
そして自分の過去を振り返る。
指を一本、二本と折り曲げて数えた。
この場所で彼女がマッチを売ってきた年数である。

ゲヘナ・リンツには親と呼べる者がいなかった。
生まれてすぐに道端に捨てられてしまったのだ。
運良く年長者のストリートチルドレンたちに拾われたリンツは、彼らと共に生活を始めた。
この街では悲劇的でも何でもない。
よくあるストーリーである。

しかし彼女は決して「育てられた」訳ではない。
と言うのも、ストリートチルドレンの先輩たちは彼女に仕事を課したのだ。
自作したガラクタを売る。
ゴミ漁りをする。
盗みをする。
どれも仕事と呼べるようなものではなかったが、生きていくためには選択肢などなく、それらの作業をしなければならなかった。

「……そうですね…物心がついたころには街角に立っていたと思います」

自分の生い立ちを振り返ったリンツが呟くように言った。

「ほう、そんなに幼い頃か」

「はい…。働かなければ飢えて死んでしまいますから。今だって安定して稼げるときなんてありません」

声のトーンとは裏腹に、リンツは笑顔を見せた。
「女は常に笑顔を絶やしてはだめよ」とストリートチルドレン仲間のイヴが言っていた。
それだけではない。
今回は喜ばずにはいられないのだ。 

「わざわざ噂を聞きつけ、来てくださるなんて、本当になんとお礼を言えば良いか…」

それも市長のような有名人が来てくれるとは。
こんなに良い日が過去にあったでしょうか!
リンツは今にも飛び跳ねたい気持ちだった。

確かに人の威を利用するようで気が引ける。
しかし市長がマッチを買ったという噂は即座に街中に流れるだろう。
そしてそれを知った人も、マッチを購入してくれるだろうとリンツは考えていた。 
やっとお金が入る。
パンの一つでも買えるかも知れないと考えると、自然と頬が緩むものである。

リンツはバスケットに思いきり手を突っ込んだ。
そして手探りで湿気ていないマッチ箱を探した。
よし、あった。
バスケットから手を引き抜くと、手のひらには比較的きれいなマッチ箱がいくつか乗っていた。
市長の眼の前に、笑顔でそれを差し出した。

「こちらでどうでしょう?」

しかしその瞬間である。 

「やめろ!!」

アンドレイ市長は突然怒鳴り声をあげた。 
先程までの微笑が嘘のように憤怒の表情に変わり、差し出されたリンツの手を思いきり払ったのである。
バチンと音がして、マッチが遠くに飛んでいく。
マッチは路上を数回跳ねると、勢いよく転がって排水溝の間に落ちてしまった。
リンツは状況をいまいち把握できず、再び呆然と立ち尽くした。

「この薄汚いドブネズミめ!」

「え?」

思わず言葉を詰まらせた。
声が思ったように出なかった。 
まるで喉の奥にチューインガムでも張り付いているかのように、声帯の振動が止められてしまうのだ。
何か言おうとして口をぱくぱくさせた。

「違法路上販売をしている女がいると通報があったんだよ。そしてお前は幼い頃からやっていると自白した」

「そ、そんなっ!」

「全く、お前さんの戸籍を探すのにはかなり苦労した。戸籍のないものを裁く法律が、この国にはないものでな!」

ふんと荒い呼吸を一つ。
それから襟元の毛皮を整えた。
そこに先程までの笑顔は微塵も残っていなかった。

「後生です。見逃して頂けませんか…」

まるで捨てられた子犬がそうするように、やせ細った腕で市長の腕にすがった。
毛皮のコードを掴む左手がジンジンと痛む。
寒さで限界まで悴んだ手はとうに痛覚が麻痺しているように思えた。
しかし実際には違った。
痛い。
焼けるように痛いのだ。
手を払われただけなのに、熱くなるまで熱した鉄球を押し付けられたような痛みが手の甲に広がっていた。
リンツは顔をしかめた。
必死に痛みを堪えていたのだ。

「ええい、離せ!」

「ああっ!」

リンツは再び地面に転がった。
運が悪いことにそこには大きな水たまりがあった。
冷たい水がすぐに浸透してきた。
起き上がることができないリンツを見て、周りにいた通行人たちがどっと笑い声をあげた。

「ゲヘナ・リンツ。貴様を無許可路上販売及び、通行人の進路妨害の罪で逮捕する!」

市長は右手を掲げた。
それからゆっくりと前方に振り下ろす。
すると黒い革の服を着用した男たちがすぐに駆け寄ってきた。
彼らは一様に同じ服を着ていた。
胸に付けた徽章が煌めいている。
男たちは到着すると市長に向かって敬礼をした。
それからリンツを取り囲むように散開する。
彼らは街の自警団の隊員たちである。

「後生ですから。後生ですから。お願いしますアンドレイ市長。見逃してください。私、この仕事がなくなってしまったら生きていけません」

「ええぃ。うるさいぞ、ドブネズミ!貴様がどうなろうが知ったことか。…お前たち、早くこいつを連れて行け!」

市長は再び怒鳴り声をあげた。
隊員たちも思わずびくりとする。

「しかし…よろしいのですか市長?さすがにこんなに幼い少女を連行するのは、やりすぎではないでしょうか」

「貴様、私に意見するつもりか?この街のルールは私だ。私が"よし"と言ったら、法的権限が発生するのだよ。逆らうならお前も逮捕するぞ、マチルダ警備隊長」

「も、申し訳ありません!!」

隊長は慌てて再度敬礼をした。
帽子を目深にかぶる。
そして部下に「連れて行け」と呟いた。
部下たちも躊躇していた。
しかし上司の指示、ましてや市長の命令に背くことはできず頷くしかなかった。
仕方なく怯えるリンツに近づく。
頃合いを見て、一気に飛びかかった。

「こら、暴れるな!」 

「大人しくしろ」

隊員たちは三人でリンツを取り囲んでいた。
羽交い締めにしようとしていたのだ。
勿論彼女はそれに抵抗した。
手足をバタつかせ、逃れようとした。
いくらやせ細った少女だからとはいえ、本気で暴れると案外厄介なもの。
隊員たちは手こずっていた。
彼女の意識とは無関係に、手足が顔や胸部にぶつかって来るので、簡単に取り押さえることができなかった。

「ええぃ、大人しくしろと言ってるんだ!」

隊員の一人がとうとう叫んだ。
その瞬間である。
リンツは自分の顔半分に大きな衝撃を感じた。
今までに感じたことのない大きな衝撃。
眼の前の光景がグルグルと回った。
自分が立っているのか座っているのか分からなくなる。
力なくうなだれた。
自警団の隊員たちは崩れそうになるリンツの身体を左右からガッチリと押さえた。
なのて地面に寝転ぶことすら許されなかったのである。

「このクソガキ。手間取らせやがって!!」

「おいテッド。落ち着け!キレるな!」

リンツを殴ったのは背の低い隊員だった。
品の良い顔立ちで一見理知的な男だ。
しかしそのテッドが獰猛な獣のような眼でリンツを睨みつけている。
逆上していた。
同僚が必死に彼を止めた。


ああ。
私はこのまま獄中で一生を終えることになるのだろうか。
薄れていく意識の中で少女は己の不運を嘆いた。
殴られた顔がジンジンとしている。
生まれて始めてのことだった。
街頭に立っていれば、突き飛ばされることも蹴られることもある。
しかし自分が女だからか、通行人は顔までは殴ろうとしなかった。
顔面を殴られるというのはこんなにも怖いことなのか。
身体が震えた。

眼窩からたらりと、何かが垂れてくることに気がいた。
それが涙なのか血液なのか、検討もつかない。
もう私には分からない。
少し眠ろうか。
願わくば、次に起きたときには、顔を殴る人がいませんようにーー。
リンツはぐったりと気絶した。
その場には市長のいやらしい笑い声だけがこだました。

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