ATMANの暗黒日記パート②
パート①の会社を辞めた理由には、会社に大穴をあけてしまったという理由のほかに、実はもうひとつ大きな意味があった。
それは、パート①のぼくが多摩川を前にして思った気持ち、そんな気持ちを持ったひと達に向けての音楽を届けたいと思ったことで、やはり、自分が歩いてきた道の音楽業界へまた復帰しようという試みがあったのだ。
そして、その後、ぼくは今度の就活は収入を途絶えさせないようにと、とりあえず、夜勤だから、比較的、時給の高かった都心部にある郵便局の仕事をしながら就活をはじめることにしたのだった。
時間は夜の11時から朝の6時。
仕事内容は、小さな支店から集まってきた膨大な量の手紙や葉書、大型の郵便物や企業などからのチラシの発送物を大まかに区分する仕分け作業と、主なのはゆうパックなど、大型発送物に関する区分仕分け作業であった。
夜勤をするのは人生はじめてであったが、驚いたことに、そこでは42だったかな?(今を思えば、厄年じゃないか!!)ぼくがその職場ではかなり若手だったってことだ(笑)
当時はなんと高齢化が進んでいる職場だ!なんて、思ったりしだが、大体、こういうところで働いているひとは、あたり前のごとく、このぼくのようになにか夜中まで働かなければいけない理由があるわけで、あまり、プライベートに関しては深く詮索してはいけないような、そんな微妙な空気に包まれていたのを覚えている。
ここで面白かったのが、最初はその人の人相にギョッとしたのだが、なんというか、ヒゲははやし放題だし、頭にはタオルをターバンのように巻いてるし、第一、体はそんなに大きくはないんだけども、体全体が鍛えた関取のように物凄くゴツく、それでいて、いつもタンクトップという出で立ちの、その職場のオサがいて、はじめ紹介された時は、手紙を高速で区分する機関車のような機械のところで彼は働いていんだけど、その複雑な機械を手際よく操作する彼の姿を見て、なんだか、千と千尋のカマジイみたいなひとだなと思ったりしたのだが、そんな彼やその他、たくさんのユニークな経歴を持つ人達との出会いだった。
後で、聞くと、彼の職業は役者。
そこには、葬儀屋、印刷屋、バブルで吹っ飛んだ不動産屋、一時、東北の大震災の時には噺家もいたし、たまに珍しく女性も働きに来ていたが、本当にいろんな業種の人間と知り合うことができた。
そのオサは頭も切れ、だからこそ、仕事ができ、ゆえに各人の仕事の割り振りや指導が的確で、彼のおかげで現場が非常にスムーズに機能していた。
だからこその現場リーダーなのだが、そんな彼は芸能の仕事をしていたこともあり、元々ぼくも芸能という意味においては比較的近い位置にいたので、すぐに意気投合したのだった。
そこの職場は前述の通り、心になにかしら傷を持つひとの集まりだったので、みんな苦労しているせいか、ひとにやさしく、できるリーダーのもと、似たような境遇の連中と夜中一緒に馬鹿を言いながら働くのは、なかなかおもしろいものであった。
本当は、収入的には週5働きたかったのだが、三六協定だかなんだかで、たくさん、働くことができないということで、しぶしぶ週4で働いていたのだが、そんな中、昼の就活で、1つ小さなレーベルがひとを募集しているという情報を得たのだった。
その会社のHPを見てみると、ものすごくダサい(笑)
内容的にも微妙で、最初、大丈夫か?とも思ったのだが、1人でレーベルを運営することに慣れていたぼくは、自分ひとりいればなんとかなると思っていたので、とりあえず、書類を提出し、書類でOKをもらったので、面接に行ってきたのだった。
面接に行くと、ぼくよりもずっと年下の専務??、実際はそのひと1人しかいない現場ということがわかり、ようは、オーナー社長のもとレーベル(会社)を起こしたはいいが、その方だけではまわらなかったようで、ちょうど、ぼくのようなひとりでなんでもできる人間を望んでいたようなのだ。
そして、その後、ぼくはオーナーと昼食を共にした。
彼も先述の人間と同じくらい、ぼくより10歳ほど若いイメージだろうか、であるが、彼はIT関係で、年若く人生の成功者となっていた。
そんな若い彼でも紳士な態度や音楽に対する熱い想い、そして、その趣味の良さは、服装などにも現れており、ぼくはここでもすぐに意気投合したのだった。
が、現実はそんなに甘くはなく、先に会社に入っていた先程の面接の年下の上司より高い給料は出せないけど大丈夫かとの問いに、それだと収入的に厳しいのでいまの夜勤をやりながらでもいいならお互い契約しましょう、ということで、そこからぼくの地獄のダブルワーク生活がはじまったのだった。
ここの会社が提示してくれた条件は、夜勤明けは14時出社で19時退勤。ない日は10時出勤の19時退勤というものだった。
この14時出社の日は、ぼくは前日の夜の11時から働いており、そこを朝6時に終え帰宅。7時に家に着き、朝食を取り風呂に入って8時半頃仮眠。そして、12時に起き、昼飯を食べ13時に家を出て、14時にレーベルに到着。
そこで20時から21時くらいまで働いて、そのまま23時、郵便局に入る。
そんな狂った生活をしていた。
今を思えば、吐きそうなスケジュールである。
しかし、ここのレーベルでも本当いろいろあった。
元々最初にいた年下の上司とは完全にそりが合わず、いつも衝突を繰り返していた。そして、それをやはり年下のオーナーがなだめるのだ。
そして、ぼくはとりあえずレーベルをはじめるのはいいが、対外的なイメージは大事にということで、HPから変更することを提案し、それは上司に任せ、実際のレーベルづくりに着手するのだった。
レーベルづくりにおいて大事なのはそのブランディングにあり、当たり前のごとく、そのレーベルはなにか統一した、そのレーベルが持つ、センスやメッセージなどを表現するバンドが所属するもでなければならない。
ということで、第一弾リリースには気を使いたがったが、ぼくが来る前にそのレーベルと既に関係していたバンドをその上司とオーナーの強い要望もあり、最初のリリースとすることとなった。
が、当然のごとく、対外的な評価は、ぼくが想像した通りのものだった。
一応、まがりなりにもその業界で20年近くやっていたので、対外的な予測は大体ついてしまうのだ。
そして、遂に、ぼくがそのレーベルに入って「コレだ!!」と思ったバンドを見つけたのだった!!
そのバンドとの出会いは、やはり、小さなライヴハウスだったが、実は彼らのようなタイプ、すなわち、ミスチルのような音楽をぼくはあまりそれまで嗜好して来なかったタイプなのだが、ツインヴォーカルが2人とも物凄い歌唱力で、というより歌力のあるタイプといった方がいいかな、そのインパクトが物凄く強く、これは凄いと彼らにその場で声をかけたのは当たり前のこと、レーベルの上司やオーナーにその報告をしたのだった。
そんな彼らの熱いライブを後にしたぼくは、帰宅してから、そのライヴハウスで聴き、自分の中にやけに残っていた曲がYOUTUBEに上がっていたので、再度、確認の為、心して聴いてみたのだった・・・
それが、この曲「燈」である。
これを夜中聴いたぼくは、涙が止まらなかった・・・
これは、まさに、ぼくが、あの多摩川で経験したような気持ちのひと達に届けたいと思う音楽ではないかと!!
演奏面で一抹の不安もあったが、まだ若いから鍛えればなんとかなるだろう、ということで、ぼくはその次の日から早速レーベルの上司やオーナーの承諾を得、早速、彼らのこの作品を世に出す為の戦略を練り、行動に移すのだった。
悲しいかな、予算の関係もあり、この作品を再度録音することはできなかったのだが、自分の中でもまずは彼らの音楽を世に知らしめることだということで、ぼくのできる範囲でのプロモーションをすべて行った。
結果、雑誌ではこのジャンルではお決まりの「◯ッキンオンジャパン」や、当時のFMで中高生に1番人気のあったラジオ番組にゲスト出演を決めたり、一部のファンからの協力もあり、当時人気のあったテレビの音楽番組の出演まで決めることができたのだった。
そして、いまはもうあまりイメージではないが、有線。
ここには、上記の曲と、この下に貼付させてもらったアルバムのリード曲を2パターンを集中オンエアしてもらった。
有線ではこれらの曲が結構長い間、上位にチャートインされ、それらメディアへの出演後、新しいお客さんからも非常にいいリアクションをもらい、ライヴへの動員も少しづつではあるが、でも確実に伸び始めていた時、最初に出したこれらの曲を収録していたアルバムのリクープができていないという理由で、既に出ていた2作目の話がストップとなってしまったのだった。
音楽で大きく成功させるには、アルバム1枚目でリクープなどを考えてはいけない。
もちろん、1作品ごとのリクープを考えるのは大事なことなんだけれど、新人が1作目から宇多田ヒカルのようにオートマチック(ここ笑うとこ)に売れるわけはないのだ。
だから、1作目の勢いに乗り2作目でブレイクさせ、その流れで1作目のリクープを狙ったりするのが、業界では通例だったりしたのだ。
が、異業種出身であるレーベルオーナーには、これを理解してもらうことができなかったのだ・・・
これも今を思えば、このレーベルを辞め、借金でもし、郵便局でもやりながら彼らと戦えばよかったのだ・・・
いや、できなかった、という方が正確かもしれない・・・
勇気がなかったのだ・・・
目先の収入を求めた為に・・・
ま、実際はもっと複雑な事情があったのだが・・・
そして、彼らはその後すぐに2作目を自主リリースしたのだが、メンバーの体調不良もあり、惜しくもその活動を休止してしまうのだった・・・
この2作目が傑作だったことは言わずもがなである。
そして、その後も本当に色々あったが、結果、オーナとの喧嘩別れとなり、ぼくはまた自らその会社を辞したのであった・・・