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ねじ式:つげ義春【感想エッセイ】
私は当然「つげ義春」を知っている。
マンガ家を目指した人間であれば、やはり名前はくらいは知っているだろう。
しかし、私が「知っている」というのもその程度であった。
「ねじ式」はとくに有名だ。
「ちくしょう 目医者ばかりではないか」というセリフはマンガ好きの間ではよく知られている。
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有名ではあるものの。
私は「すごい人なんだ、へ〜」と鼻水を垂らしているだけで、あまり興味は持っていなかった。
しかし、私のマンガの師匠も「つげ先生は別格」とおっしゃるし、とくに「山椒魚」が良いと言っていた。
私はとにかく師匠に心酔しているので、師匠がそこまで言うなら「読みたいなぁ」と考えていたのだ。
(ここで「面白いから読みなさい」とは絶対言わないのが、私が師匠に心酔しているところなのだ)
そして『おお、入ってるではないか。山椒魚が』と。
この本をブックオフで見つけたので、早速買った。
220円にクーポンを使ったので、120円だった。
情ねぇ貧乏人である……。
読んでみる。
「なるほどなぁ、ねじ式はこういう作品だったのか」と。
今でもやたら話題にされている理由がよくわかった。
シュールレアリスムっていうのは、熱狂的に好きな人がいる分野だし。
たしかにこれは他にない作品だと思う。
ただ私にはあんまり刺さらなかった。
私はシュールレアリスムはあんまり好きじゃない。
同時代の画家で好きなのはピカソ、クレー、モンドリアンあたりで。
ダリはとくに好きじゃなく、これ見よがしな感じが嫌なのだ。
自分の話はどうでもいいのだが。
「こういうのが続くならちょっとツラいなぁ……」と思ったので、少しずつ読んだ。
しかし、どうやらシュールレアリスム的作風はつげ先生の一面でしかないらしい。
「沼」「チーコ」「初茸がり」と一日一話ずつ読み進める。
そして「山椒魚」にたどり着く。
たしかにこれは面白い。
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自分がどこから来たかわからない。
自分が何者かもわからない。
ボンヤリしたサンショウウオがいるのは、汚ねぇ下水の中である。
劣悪な環境で最初は死にそうになったサンショウウオ。
今では腐肉も虫ケラを食う生活も、ヌルヌルの汚水も平気になったという。
そんな彼の楽しみは。
上流から流れてくるゴミを、じっくりじっくり点検してやることだ。
しかし、ある日。
彼の元に素性の全くわからないものがやってくる。
三日間。
よく考えて、よく調べても、分からない。
サンショウウオは腹立ち紛れに2,3発ほど小突き。
この謎のゴミを下水の闇に葬ったのだった。
そして、その分からなかったモノ。
それは、人間の胎児の死体だった―――――。
というあらすじである。
個人的に「なんとなくわかるなぁ…」という気持ちがじんわり来た。
なにが「わかる」のかは、難しくて書けんのだが。
私と同じ境遇の人は、なんとなくじんわり来るんだと思う。
しかし、私の一番のお気に入り作品はこれじゃない。
一番のお気に入りは「大場電気鍍金工業所」という作品である。
どうやらつげ義春先生の自伝的要素が含まれているらしい。
戦後間も無い貧困社会に生きる人々。
彼らが助け合うでも無く。
敵対し合うでも無く。
暖かくも無ければ。
殺伐もして無い。
これが「当然の世界」だと受け入れて暮らしている人々のお話。
最後。
ボロ工場の女主人と新人職人・三好さんが肉体関係になって夜逃げ。
何も知らない小年工員「義ぼう」は置いてきぼりにされた。
ひとりで作業を続けていた時。
知り合いの煎餅屋の親父から、その事実を聞く。
「義ぼう」は。
怒るでも無く。
落ち込むでも無く。
ボロの廃工場で部品を磨き続けていた――――。
私がこの話を好きな理由は、絶望に対するユーモアである。
義ぼうの状況はたしかに悲惨だ。
これを大げさに悲しんだり。
ツライ状況でも頑張ろう!という方が、ドラマティックかもしれない。
ただ私は。
黙々と作業を続け、どんな理由であれ「スカす」義ぼうの姿に。
卑屈だろうが。
暗かろうが。
絶望をバカめと笑って生きる。
そこに生の強さを感じ、勇気をもらえるのである。
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これは魯迅の諸作品のユーモアに通じている。
魯迅を「インテリぶった小賢しいヤツが読むもん」という信念がある人にはウザったらしいかもしれないが。
この本は凄いだけじゃない。
読んで良かったなと、思った。
おわり。
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あとがき
前まで「私の感想文なんて誰が読むんだ…」と思っていたので、書かなかった。
「必死にもがく」ことを決めた私にとって。
「思いついたことは何でもやろう」と思って書き始めた。
その感想文第一号がこの記事であるが。
風邪をひいて他の優先事項を進められなかったので。
ちょうど座椅子にもたれて動けない状況でも熱中できた。
写真をいっぱい載せてるのは、手を見て欲しいからである。
自分自身ではよくわからんのだが。昔からよく手を褒められていた。
保険の先生とか、同級生の子とか。
若い時はお金もらって、男の人に舐めさせていたこともある。
冷静に考えるとスゴいことしてるなぁ……。
だから、年をとったとはいえ。
私の手にはそれなりにまだ価値があるんだろう。
記事の文字ひとつ読んでもらえなくても。
私の手目当てにいいねしたり。
フォローしてくれる人がいれば、それでいいんだ。
いまの私はプロ作家になるため。
少しでも多くの人に作品を読んでもらうために、とにかく必死なのだ。
生きねばならん…。
生きねばならん……。
自分に元からある価値を利用してなにがわるい。
この「ねじ式」短編集にあるニセ武蔵のように。
私は肩に生きるためのキビシサをずしり感じている。