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戦いにしか思えなくなった日々

2022年8月。

僕はだんだん全ての事が戦いにしか思えなくなって
消耗と整備と投入と戦果の中を忙しなく動き回る生き物になりつつある。

事業を陸軍戦。
資産運用を海軍戦。
事業開発を空軍戦。
と定義した僕は各軍司令官兼兵士として
それぞれの戦場で指示を出し
そして戦い生き延びたり死んだりした。

そして僕がどれだけ忙しなく軍人ごっこの様な殺伐とした状況で生きても日常は穏やかに空気を見失う事なく穏やかな匂いを漂わせている。

僕の全ての戦場は資本主義社会的土台の上に展開され資本主義によって存在する匂いの支配の外側は穏やかな世界が永遠に続いているように思える。

全ての戦う人々に戦場の外の世界がある事をお伝えしたい。
これが経済的な戦いであれ、ホンモノの戦争であれ、戦場ではない世界はずっと広く穏やかに存在している。
戦い疲れたら、そこに逃げ込む事は全ての人間に許された権利。

常に逃げられるように、僕達は戦場の外の世界にも、目を向ける必要性がある。

陸軍戦

話を戦いに戻そう。
僕が戦う戦場で最も悲惨で汚れて苦しくリアルな身体的負荷の大きな世界は事業戦であり、ここでは物理的な物品の破損も肉体的負傷も起こり、資材が消耗し、精神が摩耗する。

そして受けた被害を早急に回復させ、また次の戦場へ向かう。

その繰り返しを行なっている様な殺伐とした世界観がある。

僕は事業を所有するオーナーである。
一般的には自分のビジネス環境を綺麗に見せたがるモノだが、実際はそんなモノは戦場の現状を隠した新兵募集の為のプロパガンダだ。

実際、事業戦線は過酷化し収益率という戦果は低迷し難所が続く。
多くの事業が大企業であれベンチャーであれ、中小企業であれ、皆多くが労働者に、その実態を伝えていない。
日本経済に含まれる各業界、それに内包された日本のビジネス環境は資本主義の中の戦いにおいて、戦況は益々苦しいモノとなり、合理化と古来の風習と制度の狭間で泥沼の戦況に落ち込みつつある。

海軍戦

資産運用の世界は事業戦線に比べれば血生臭くはない。
ただし、これはマヤカシだ。

その内、大量に爆撃され炎上する。
僕はポートフォリオの中に幾つかに大型戦艦となるコア資産を形成したが、これらも無事に済む保証はない。

世界経済は大きな歪みを抱え資産家の資産群を破壊しにかかってくる。これは事業戦にも影響を及ぼす。
誤解を恐れずに言えば、資産流動は資本主義社会においては血液であり資産群は社会に散りばめられた社会の心臓であり、その心臓が今、針で貫かれそうになっている。

社会活動に参加する多くの投資家は自身の資産群に幾つかの火災を抱えている。
そして投機的立ち位置の非成長的資産流動は甲板に弾薬や爆弾をギッシリ敷き詰めて航行している。
彼らは味方ではない。
彼らはド派手に爆死して見せたり、その兵器で市場に爆撃をかけたりしている。

資産運用の世界は皆の艦隊が穏やかに航行し物資を届け、世界の経済を潤わせる事が本来の役割であるが資本家同士の海戦を展開し爆発炎上、沈没を繰り返す。
個人投資家が多くなり、彼らの欲求を巨大資本が煽動し、今や艦隊を引き連れた海賊の様な輩が経済市場を荒らし回っている。

そして今、海自体が大きく荒れようとしている。

空軍戦

新規事業開発は今はかなり下火になりつつある。
多くのリソースを資産クラスの防衛と既存事業の維持に吸われ、そのどちらも大きな戦果を得る事がなく、余剰資金は枯渇していくからである。

リソース不足が空軍力を減らす。
終いには事業売却と言った特攻攻撃を命じられ、可能性毎消えていく。

それでも多額の開発資金を喰らう新規事業の削減は既存の事業や全体の資金流動を圧迫してしまう。
しかし、それでは勝てない。

なので僕が取るべき戦略は事業戦線とリスク資産の縮小によるランニングコストの低下と、その余剰分を新規事業開発に入れ込む、と言った戦法である。

テクノロジーの有効活用によってのみ、現状を大きく打開する可能性があり地上戦も海洋戦もジリ貧なのであれば、望みは別次元の展開にしかあり得ない。
ただし、既存戦線をムゲにすれば犠牲は計り知れないので、それらを防御体制にして戦線縮小し、新規事業開発へリソースを振り分ける。

その為には事業売却も含めた特攻戦術も取る。
既存事業の黒字経営と資産運用の安定化は全てに優先し、その上で事業開発にリソースを振り分ける。

戦場ではない処

既存事業も資産運用も新規事業開発も
僕にとっては戦場だ。

戦場であるから、時に戦術が上手くいき高揚感を僕に与えたりもしてくれるし、大きな戦果を得て恍惚を与えてくれたりもする。

しかし、全ての戦いは犠牲を孕み、時に残酷で殺伐とする。
そして戦況が悪化すれば、そこは地獄と化す。
多くの犠牲の上に戦果を得て、人々は、その外側だけを見る羽目になる。
つまり余裕のある生活、仕事の成果物、起業家や投資家、事業家としての成果や評判などだ。

また僕以外の世界でも戦っている自覚があるのは経営陣で多くの人々は知らず知らずの内に戦いに参加させられ、会社という船が被害を受ければ処遇が悪くなったり、時に解雇される羽目になる。

自分達がいつの間にか戦艦に乗り合わせていた事など知る由もなかったりする。

資本主義は合理的な装置として人々に戦場を与え続ける。
発展、発達、成長は学術的追求や倫理宗教的発展ではなく、合理的戦術と成果物の中に存在する。
無意識に戦わされて、使役させられる世界。
現代社会においては資本主義的活動は、それに参加する殆ど全て人々による総力戦の様相を呈している。

僕は、その外側、資本主義の外側に目を向けたい。
資本主義での戦いで戦果を上げてきた人々が存在すら忘れてしまった資本主義の外側の世界に目を向けたい。

僕の長らく戦場にいたので、その外側の世界にはピントが合わない。ボヤけてはいるが、しかし穏やかで煌びやかである世界線が存在しているのは分かる。

生存権自体が資本によって現代社会に繋がれた僕は、その世界の外側では生きてはいけないのだろう。
ある種の宇宙空間の様なモノだ。

それでも、その世界の方がずっと広くて争いがない。
資本主義的世界で合理的に戦う事をやめる事は出来ない。

それでも、その外側に世界が遠面と続いていく事は忘れずにいたい。

資本主義の戦いは終わらない。
今日も人々は経済的利得の方向性を生産性と呼び、仕事を成す事は成果を生み出す方向に定義され、合理性を持って日常を営み、資本を増殖しようとし、時に人の利得を破壊し、それを戦果として自らのグループの利得として取り込み続ける。

その中で科学技術が発展し、時には戦争が起こり、人が死に、街が壊れ、迫害や差別も起こる。
そして政治が行われ、利害関係が強化され、僕達をより高度な戦いへ誘う。
これが資本主義的成長の中で永遠に繰り返されていく。

衣食住の全てが市場であり需要であり、企業が取り合う牌であり、人の数すら経済指標で、人間は資本主義の指数に反映されて生まれ、そして死んでいく。

しかし、これらは僕達人間が作り出したシステムで、その外側の世界の方がずっと広い。
資本主義は僕達に最適化して作られたが、僕達は資本主義に最適化して作られた訳ではない。

資本経済の外側の幸福を考える自由もある。

戦わなければ生き残れないかもしれないが
戦いに生きる必要性もない。

と、事業家として
投資家として
起業家として

戦いながら考えている。

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