「読む」ことで「書く」ことを取り戻す
小さな雷にでも打たれたかのような、そんな感覚だった。頭から放たれた刺激がからだの中枢をひと息に駆け抜け、枝分かれした指先を、つま先を、じりじりと痺れさせる。
運命的な恋の話じゃない。一昨日の夜に参加した、読書会での出来事だ。
運営に携わっているライティングコミュニティsentenceで開かれた読書会は、なんとも新鮮なものだった。
それまで、私が参加してきた読書会は、「事前に本をまるまる一冊読み、各自担当の章を決めて該当の内容を発表する」が主流。しかし、今回の読書会は、約550ページある本からたったの4ページを、音読しながら、90分(結果的には120分)かけて味わい尽くす方式だった。
当日読んだ本は、こちら。
読書会から2日経った今もなお、冷めやらぬ興奮の渦にいる。あの場で感じたことを、なんとしても書き残しておかなければ。衝動のようなものに背中を押され、私は、筆をとった。
あんなに自由だった「書く」が、遠のいていく恐さ
オンラインで注文し、2週間前に届いた文庫本は、中古でもないのに懐かしい匂いがした。
パラ、パラとページを繰りながら、ふと、小学校の国語のじかんを思い出す。そこにいるのは10才の私。目の前には作文用紙がある。
黒板に大きく書かれた「運動会」の文字。静かな教室に響く鉛筆の音。左手に握った鉛筆は、規則正しい動きを保ったまま、白い紙の上をするりするりと駆けていく。
昔から文章を書くのが大好きだった。
「作文は、“起承転結”を意識しましょうね」
大きな声でそう話す先生に目もくれず、自分の胸の内から溢れ出す言葉を書いて、書いて、書きまくる。
クラスメイトのほとんどが作文用紙1、2枚で収めるところを、私は、4、5枚書いて提出した。
あの頃の私にとって「書く」ことは、とてつもなく自由で、このうえない喜びだった。
ところが、大人になるにつれ、その感覚はどんどん失われていった。
ライターという仕事をはじめてから、本格的に書くことを学ぶようになり、その形式を知るごとに、原稿が修正の赤で染まるごとに、書くハードルは高くなるばかり。
noteのようなプライベートな書きものも、思うように筆が進まないことが多々あった。
あれだけ身近に感じていた「書く」は、気がつけば、どこか遠い存在になってしまった。
「絶望」から出発した読書会
『高校生のための文章読本』の該当ページを読み進めるうち、そんな弱気な心を激しく揺さぶる文章が目についた。
良い文章とは、①自分にしか書けないことを、②だれが読んでもわかるように書く という二つの条件を満たしたもののことだ。
並んだ文字面だけ切り取って見れば、しごく簡単なことに思えるが、その意味を探ろうとすれば、たちまち、深い海に突き落とされる。
「自分にしか書けないこと」なんて、どう探せというのか。そもそも、何を持って「これは自分にしか書けないことだ」と判断するのか。
さらに、それを「だれにでも分かるように書きなさい」と来た。正しい日本語の知識だけでは、太刀打ちできない壁。書く仕事をはじめてから、この難しさには何度もぶつかっている。
「やっぱり、書くことは遠くなってしまった」
最初にこの本に触れたときは、絶望にも似たような心地がした。けれど、読書会でほかの参加者の話を聞くうちに、この文章との向き合い方が大きく変わっていった。
「自分にしか書けないこと」は、いつもそばにある
「自分にしか書けないことは、どうすれば見つけられるのか?」
読書会の後半、ある参加者の発言が、この問いを見つめ直すとっかかりをくれた。彼女は次の文章を音読しながら、「この部分が一番心に刺さっている」と打ち明けた。
表現とは、一度人間の心の中を通ってきた“世界”に、“かたち”を与えることである。その“かたち”が堅苦しいことばでは形式と呼ばれるものなのだ。自己に忠実であろうとするとき、既成の形式は多かれ少なかれ打ち破られていく。これが創造ということだ。
「ここで言う“世界”は、きっと、その人自身の置かれている環境やこれまでの経験からも影響を受けるものですよね」
そのコメントを聞いたとき、ハッとした。「自分にしか書けないこと」は、どこを探してもそう簡単には見つからないと恐れるような、大げさなものではないのかもしれない。
人間の心は、人それぞれの経験や環境、感情等によって形成されるものだ。表現というものが、否が応でも、この心を通過して生まれると言うのならば、それはすでに「自分にしか書けないこと」になっているのではないか。
小学生のときに書いた「運動会」の作文。全国の子どもたちが一生に一度は扱いそうな、ありきたりなテーマではあるが、私のクラスメイトが書いた作文は、そのどれもが個性的なものであったように記憶している。
かけっこで2位を獲って悔しい思いをした者、3位でも喜んでいる者。個人競技に燃えた者、チーム対抗のリレーに全力を尽くした者。競技そのものより、青空の下で食べたお弁当のおいしさが印象に残っている者。
ほかのだれでもない「私」という人間のフィルターを通って生まれた言葉は、どう拒んでも「自分にしか書けないこと」になってしまうのではないだろうか。
「今日僕が言ったことと同じことも、明日ほかの誰かが言ったとして、それらはまったく別物のように感じられると思うんですよね」
ひとりの参加者が、そんな言葉を重ねる。ほんとうにその通りだと思った。
「自分にしか書けないこと」は、身近なところにたくさん転がっていて、なんなら、もうすでに自分の心のなかにいくつか眠っている気もする。
あとは、それをどう引っ張り出すか。これは自分の気持ち次第なのだ。
“わかりにくさ”が、“わかりやすさ”を生むこともある
「だれが読んでもわかるように書く」についても、興味深い意見が寄せられた。
ある参加者が、落合陽一さんの著書を読んだ体験を引き合いに出し、こう振り返る。
「1ページに驚くぐらいの注釈がついていて、逐一それを読み込まないと次のページに進めないんです。あんなに一行を読み進めるのが大変な本は知りません。でも、不思議と最後まで読みたいと思わせてくれる本でした。あれは、決して『だれが読んでもわかるように』書かれたものではないけれど、たしかに面白かったんです」
ここで、参加者の間に疑問が生まれる。
だれが読んでもわかるように書かれていない文章でも、良い文章になり得るのだろうか。
口を開いたのは、読書会の主催者でもある西山さんだった。
「落合さんの場合、あれ以上分かりやすく易しい文章にしようとすると、『自分にしか書けないこと』ではなくなるのかもしれませんね」
なるほど、と思う。注釈がびっしりと付いたその文章は、きっと落合さんにとって「自分にしか書けないこと」と「分かりやすさ」を追求した結果の最適解だったのかもしれない。
もう一つの例として、西山さんは野口英世の母親が、英世に宛てた手紙について教えてくれた。
親元を離れた英世に対して、「どうか田舎に戻ってきてほしい」と訴えたその手紙には、拙い日本語がびっしりと並んでいたと言う。
その文章が「わかりやすい」か「わかりにくい」かと問われれば、きっと後者に入るだろう。だが、その「分かりにくさ」こそが、子を想う母親の複雑で切ない気持ちを、分かりやすく表現しているのではないか。
つまるところ、「だれが読んでもわかるように書く」ことは、「自分にしか書けないこと」を崩さない範囲で、“自分の考えを、自分が持てうる力の限りを尽くして正確に表す”ことなのかもしれない。
実際、本のなかでもこう記されている。
だれが読んでもわかるように書くということは、言葉の意味がわかることも含んでいるが、それだけではない。自分にしか書けないこと、自分だけの発見や経験をできるだけ正確に言葉に表現するということを指している。
この「できるだけ」という言葉の真意は断定できないが、「きれいな日本語でなければ」「うまい文章を追求しなければ」といった強引さは一切感じられない。
私はここに、とてつもない希望を感じている。
なにごとも形式や型を重んじることは大切だが、それに捉われすぎる必要はないのだと、そう励ましてくれているような気がした。
一冊の本を通じて、「書く」を取り戻す
「書くことは、遠くなってしまった」
そう思っていたが、結局のところ書くことを遠ざけていたのは私自身だった。
読書会が終わったあと、無造作に散らばったペンとノートを拾い上げ、机の上で真っ白なページを開き、思いつくままの言葉を書き綴る。
ペンを握る左手に自然と力が入り、じんわりと汗ばんでいくのが分かる。
書いて、書いて、書きまくる。
小学校の国語のじかん、先生の声も、時計も気にせずに鉛筆を走らせていた、あの頃の自分を取り戻すような感覚がした。
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冒頭でも書いたように、この読書会は、体の末端が痺れるほど衝撃的で、豊かなものだった。読書会に一緒に参加したJun Osakiさん、おたるさんのnoteもとても尊く、この文章を書くうえでたくさんの勇気をいただいた。
sentenceでは、これからも定期的に読書会を開催していく予定だ。買った本は、積まれたまま埃をかぶらせてしまうような私だけど、これからは「読む」ことで「書く」ことを取り戻していきたい。
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