大切な彼との間に、新しい命を授かった話
両親が40手前に授かり、三姉妹の末っ子として生まれた私は、たくさんの愛情に恵まれ、大切に育てられてきた。
歳の離れた姉ふたりが、子どもだった頃は禁止されていた炭酸飲料やテレビゲームは、私だけ小学校に上がる前から解禁されていた。
祖父母は私がねだるものは何でも買ってくれ、共働きだった両親に代わり子守りをしてくれた姉ふたりは「出世払いでいいから」と、成人になってからも何度も奢ってくれた。
この間、実家に帰り夕飯に餃子を作ることになったとき、餃子の皮を包もうとした姉に対して母が「あーちゃんに包ませたって。練習にもなるから」と言ったそうだ。
27歳になった今も、家族から見れば私は“餃子の皮も包めなそうな幼い末っ子”であり、かく言う私自身もどこか大人になり切れていない感覚があるのは確かだった。(ちなみに餃子の皮は包めるから安心してね、お母さん)
だから、驚きを隠せなかったのだ。いつかはこの日が訪れてほしいと願いながらも、実感が湧かず、喜びと不安とを何往復もした。
彼と結婚して2年が経とうかという頃。桜が芽吹く時期に先立って、新しい命を授かった。
*
彼との結婚式を控えた3ヶ月前、順調に来ていた生理がパタリと止んだ。
「1週間前に体調を崩していたから、その影響かな……?」と、最初はあまり深く考えず、しばらくは様子を見ていたが、予定日より1週間が過ぎても生理は来なかった。
もしかしたら、と妊娠検査薬を試してみると、結果は陰性。正直、このときの自分がどんな感情だったのかは覚えていない。想定通りの結果だったし、期待していたわけでもない。けど、薄暗いモヤのようなものが、たちまち身体中にたちこめる。そんな感じ。
トイレから戻り「陰性だったよ」と話す私の顔を見た夫は、掴みどころのない、ぼやぼやっとした私の本音に向き合おうとしてくれた。
生理の予定日から考えれば、陽性になる可能性に心当たりもなく、目の前にある結果は自然なことだとも思えた。だけど、陽性であれば見えるはずの赤い線が入っていない検査薬を何度も見返しては、どこか気を落としている自分がいることに気がついたのだった。
事態が急変したのは、それから3日後のこと。
相変わらず生理が来ず、2本目の検査薬を試すことにした。
結果がわかるまで、1分。普段はズボラな性格の私が、このときはタイマーをセットした。1秒、1秒が長い。息を忘れる。まだ20秒。タイマーが鳴るまで、目を閉じて待つ。
ピピピ……という電子音に、心臓がぴくっと跳ねる。そろりと検査薬の小窓に目をやると、濃い色の赤い線が1本、その隣に薄っすらとした線がもう1本あった。陽性の印だった。
目を凝らせば「あるように思える」ほどの、か細い、薄い、線だった。だけど、到底「気のせい」とは思ないほどの、しっかりと肉眼で確認できる、たしかな線だった。
確証は持てないけれど、妊娠の可能性がある。その事実に手が震え、思い出したようにスマホを探し、何枚か写真を撮り、そのまま近所の産婦人科に予約の電話を入れた。
夫の顔が浮かぶ。自然と口角がつりあがる。
本当は今すぐにでも電話をかけて報告したかったが、あれこれ考えて、初回の検診が無事に終わってから話すことにした。
*
過去に生理の関係で何度か産婦人科を受診したことがあった。初めてのときこそ緊張したけれど、何度か通えば慣れたもので、だけど今回はどうも気が気でなかった。
年季の入った白革のソファに深く座り、自分の番号が呼ばれるのを待つ。「暇つぶしに」と読みかけの文庫本を手に取ったが、まったく内容が頭に入ってこない。活字を目で追ってはいるものの、1ページ読み終えたところで「あれ、何でこの展開……?」と、行ったり来たりを何度繰り返したか分からない。結局、番号が呼ばれるまでに2ページも読めなかった。
診察室に入り、目の前にはメガネをかけた人の良さそうなおじさん先生の姿があった。何となくジブリ映画の鈴木敏夫さんに似ていて、勝手ながらも彼のことを「鈴木先生」と(このnoteでは)呼ぶことにする。
鈴木先生は、「生理周期から数えれば、8週目に入っていますね」と話し始めた。妊娠の知識に乏しい私は「(8週目って、どんな状態なんだろう……)」と疑問に思いつつ、鈴木先生の指示に従ってエコー検査室に移動した。
「エコーを入れますね〜」という言葉とともに、下半身に鈍い痛みを感じる。その瞬間、左上のモニターに中の様子が映し出された。が、そこにはぼやぼやした白黒のモヤが見えるだけで、私の目では赤ちゃんらしき姿が捉え切れずにいた。
「(どれが赤ちゃんなんだろう……?)」と不思議に思っていると、鈴木先生はカーテン越しに「う〜ん、赤ちゃんが見えませんね」と呟いた。
先生いわく、「8週目であれば、赤ちゃんの姿だけでなく心拍も確認できる時期」だそうで、なのに私のお腹の中には、赤ちゃんはおろか、赤ちゃんが入る胎嚢(たいのう)と呼ばれる袋さえもなかったのだった。
検査薬では陽性と判定されたが、赤ちゃんが見えない? 陽性は見間違いだったのか?
あらゆる懸念と疑念が頭をめぐり、ひとつ考えては消え、また考えては消え、頼りないシャボン玉のような思考が脳内をぷかぷかと泳ぎ、次々とはじけ、終いにはゼロになった。
診察室に戻り、鈴木先生は落ち着いた様子で説明を始めた。
病院でも尿検査の結果は陽性。だけど、線の薄さから考えるに8週目ではなく、4週目にも差しかかってない可能性がある。生理周期がどこかで大幅にズレたのかもしれない。だとすれば、まだ赤ちゃんの袋が見えなくてもおかしくない。あとは、100人に1人の確率だけど子宮外妊娠の可能性もあるが、まだ心配しなくても大丈夫。来週また来て様子見ましょう。
鈴木先生は、たまに滑舌が悪く、声はマスクでくぐもって、余計に聞こえづらい。ただそれ以上に、私の声のほうが聞き取りづらかったと思う。出してるのか、出してないのか、自分でも分からないくらいの声で「はい」とだけ言って、診察室をあとにした。
手渡されたA4の用紙には、子宮外妊娠や流産の説明が詳しく書かれていた。本当はこんな紙なんかではなく、ドラマや漫画で見たようなエコー写真を持ち帰る予定だったのに。
駐輪場にひとり立ち尽くし、からっぽの頭の中で「彼にどう説明しようか」と考える。帰路につきながら、何度かシミュレーションしてみたが、どうも途中で映像が途切れる。そうと決まったわけではないのに、どうして私は自分が欲しい未来だけを想像できないのだろうか。
罪悪感に苛まれながら、彼の帰宅をひたすら待ち続けた。
*
「今日、病院に行ってきたよ」と切り出すと、彼は「?」という顔をした。それもそうだ。陽性だったことはおろか、産婦人科を受診することもこの日まで黙っていたのだから。
絶対に泣かないとだけ決めていた。たどたどしい説明になってもいいから、自分の言葉で、経緯を一つひとつゆっくりと話そうと思っていた。何度もシミュレーションしたからと。
無理だった。
生理周期から考えれば、見えるはずの赤ちゃんの袋も姿もなかったと。そう話し始めたときに、声が震え、我慢と涙の系がプツと切れてしまった。私以上に彼は困惑したに違いない。陰性だと思っていた結果が陽性に変わり、だけど妻は目の前でわんわんと泣いている。
夫はどんな反応をするだろうか。何度もシミュレーションをしたのに、それを告げた夫の様子だけは、どうしても途中で映像が途切れた。そこだけが想像し切れなかったのだ。
心配をよそに、夫はゆっくりと隣に来て、優しく話を聞いてくれた。すべての事情を把握したあとで、「大丈夫、大丈夫。守るからね」と背中をさすりながら言葉をかけてくれた。
そのとき、「私が欲しかったのは、彼の根拠のない自信だったのだ」と悟った。この先どうなるかなんて、私にも彼にも、だれにも分からない。今できるのは信じることのみで、根拠のない「大丈夫」という言葉に身を寄せることなのだと。
かつて海外に留学したとき、フランス人のルームメイトにこう問われたことがあった。
「私のように神を信仰している人たちは神を信じて祈りを捧げる。だけど、あなたはそうじゃないのよね。例えば何かにすがりたいときがあったとして、必死に祈りたいことがあったとして、あなたは何を信じるの?」
あのときの私は、考えたこともない質問を前に沈黙した。大学を受験するときとか、就職を頑張っていた時期とか、神は、人生に必要なときだけ信じていた。
だけど今は、神よりも何よりも、私の背中をさすりながら「大丈夫だからね」と根拠のない自信を伝え続けてくれる彼を、心から信じたいと思ったのだった。
*
数年前に友人の結婚式に参加したとき、教会の巨大なガラス窓から見える天気は、あいにくの雨だった。
晴れたらよかったのにね、と話す私の隣で、友人のひとりが「逆に縁起がいいらしいよ」と教えてくれた。
神様が新郎新婦の一生分の涙を流しているからだとか、雨降って地固まるように安定的な人生を送れるからだとか、諸説あるのだと。
あのときは強引にも感じた話だが、何に意味を与え、与えまいとするのか、結局は自分が望むように考えればいいのだと、今なら思う。そこに少しでも希望を持てるなら、強引だってなんだって。
その日、外に出ると雨上がりのアスファルトは薄っすらと濡れていた。2度目の検診日だった。
待合室のソファに腰かけると、お腹がぽんわり膨らんだ妊婦さんが前を通る。この1週間、まずは妊娠そのものについての知識を蓄えようと、あれこれ調べた。出産までの道のりはドラマや漫画で語られるよりも長く険しく、着床の場所、胎嚢・胎芽、心拍の確認、成長スピード、母体の健康、胎盤の完成など、気にかけるべき要素は無限に湧き出るようだった。
大袈裟に聞こえるかもしれないが、この世は奇跡の集合体なのだと、本気で考えるようになった。目の前を歩く妊婦さんが、陽だまりのような温かい光で包まれているようにさえ見える。
受付番号を呼ばれた。夫の顔が浮かぶ。
診察室には、鈴木先生の姿があった。「特に変わったことはありませんか?」とだけ聞かれ、検査室へと通される。真っ白な診察台に座るとひんやりとした冷たさが肌を驚かせる。左上のエコー画面を見ててくださいねーと、鈴木先生は早口で話す。鈍い違和感とともに画面に白黒の映像が映り出した。
小さな、楕円型の袋が、確かに見える。
12.6mm。
カーテン越しに声が聞こえる。
「はい、ちゃんといましたね。見えますか?これが胎嚢と呼ばれるものですね。大きさから妊娠4週目かなと思います」
生理周期が大幅にズレていたんでしょうね、と鈴木先生は言った。
画面を眺めながら、まくりあげたシャツの裾をぎゅっと握りしめる。唇をきゅっと噛み締め、右手をそっとお腹に添える。
ああ、私はお母さんになりたかったのだ。
意識しないようにしていたけど、本当はきっとこの日を待ちわびていた。大切でたまらない彼との間に初めて授かった命。
診察室で渡されたエコー写真は、想像とは異なってペラペラだった。だけど、印刷したての感熱紙はほんのんりとした温かさをまとって、じんわりと緊張をほぐしてくれる。ちゃんとそこにいてくれたのだと、診察室を出てからもその小さな黒点をしばらく眺めていた。
その日の夜、夫は開口一番「どうだった!?」と尋ねた。退社してすぐに電話してくれたようだった。
ありのままを話すと、彼は「おめでとう」と告げ、わずかな沈黙のあとに「頑張ります」と穏やかに宣言した。お互いに頑張らなくちゃね、とあのときは返したけど、変に肩肘を張るのではなく、ゆっくり、のびやかに、少しずつ親になる準備をしていきたいとも思う。
変わらなければいけないこともあるし、変わりたくないこともある。
考えるべきことはたくさんあるが、まずは、お腹の子と自分たちの健康を願うばかりだ。
*
4月の半ば、無事に赤ちゃんの姿と心音が確認できた。画面にはぴょこぴょこと小さくも立派に動く心臓が映り、マイクを通じて「トットット……」と急ぎ足の音が聴こえてきた。
5月に入る頃には、夫も気づくほどにはお腹も膨らみはじめ、朝のお見送りの際に、彼は柄にもなく「指ハート」をお腹に向けて贈ってくれるようになった。(届いてるといいね)
検診は頻繁にあるものだと思っていたけれど、実際は4週間空くこともある。赤ちゃんとの距離は、物理的にはゼロと言っても差し支えないと思うけど、その姿をちゃんと見られる健診時にしか「会って」いないような気がして、なんだか遠距離恋愛みたいだなとさえ思う。
この文章を書いてるのは、ちょうど妊娠4ヶ月に入ろうかという時期だ。安定期に入ってから知らせようと、まだ家族や友人にも伝えてない。早く知らせたい人たちの顔が駆け巡る。
先週から検診日ごとに更新する用の日記も書くようになった。本当はアプリに記録するのでも良かったのだけど、高校生のときにたまたま両親の部屋から、生まれたばかりの私の記録を母が綴ったノートを見つけた影響が大きい。母の書く文字は、私が知るよりも若い感じがあり、何だか温かかった。
忘れたくない記憶と気持ちは、これからも、いろんな形で書き残せたらと思う。
この漢字だらけの文章を、お腹の子が読めるのは何歳くらいだろうか。そもそも読む機会があるのだろうか。その日までに、この文章が残っているのかも分からない。
けど、それならそれでいいとも思う。私がそうだったように、たまたま見つけてくれたのなら、そのときは読んでくれると嬉しい。
二度とは戻れない日々の、温かく、とびっきり幸せな記憶を。
[あとがき]
この文章を温めつづけて早2ヶ月。妊娠6ヶ月に差しかかり、ぽこぽことお腹からメッセージが飛んでくることも増えました。妊娠生活も折り返し地点を過ぎた頃ですが、少しずつ膨らんでくるお腹を見つめ触っては、親になる責任と実感もすくすくと育ってきているのを感じます。
地域の両親学級に参加して赤ちゃんの抱っこの練習をしたり、今まで足を踏み入れたことのなかったベビー用品店を訪れたり、我が子の未来を想像しながら名前を考えてみたり……。私と夫にとって初めてのことばかりで、何を選択すべきなのか、どう行動すべきなのか分からないことが、出産前からこんなにもあるのかと驚いています。
正直、不安なことは尽きないけれど、「最初から完璧なんて無理」という、どこで聞いたかも忘れた言葉を頼りに、夫と新しい家族を迎え入れる準備を楽しんでいけたらと思う日々です。