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諦観
諦観とは所謂「諦める(断念する)」という意味とは少し異なります。
「ていかん」とも読みます。
本質を見極める。
あきらかにする。という意味です。
それは空から降る雨、一粒が、
「自分がこの地球を潤しているのだ」
などとは考えていないのと同じように。
私たちは存在している。
雨粒には自我はないでしょうか。
人間は雨一粒の大切さを知っている。
人間は意味を持たせている。
雨一粒、人間一人、この地球にとっては、宇宙にとってはちっぽけな存在ですか?
人間一人の大切さを知っている存在はどこにいるのでしょう。
それは神様ですか。
全ては内包されている。
有るでもよいし、無いでもよい。
私たちは雨一粒であり、
人間一人であり、
地球であり、
宇宙であり、
神であり、
全てである。
私はいつから生きづらさを感じていたのでしょうか。
所謂「鬱」と呼ばれるに至る理由など、挙げ出せばキリがないほどあるでしょう。
私は年齢を重ねるにつれ他者や社会との関係に疲れ、自分を取り巻く環境から大きなストレスを感じる事をなるべく避けようと、一人になる事を好み、一人で考え、深く追求し、自分がどのように生きれば少しでもこの人生を苦しまずに生きていくことができるのかと思い悩む中で、孤独を選択する時間は益々増えていきました。
ところが私は、私の為にと選択し続けたそのような生活の中でさらに精神的に落ち込んでいきました。
数年前までは特に酷く、今振り返っても心身ともにもっとも鬱な時期を過ごしておりました。
私は何もかも投げ出したい気持ちでおりましたが、もはや投げ出す気力もありません。
風呂キャンセルなどという言葉を近頃よく見かけますが、私の場合は数ヶ月風呂に入らずに過ごした事もあります。
(聞くだけで汚くて、臭いしゾッとしますよね、ごめんなさい。信じていただけないかもしれませんが私は元来潔癖寄りなのです。今は毎日入浴しております。)
仕事も辞めておりましたので、起きている間にやる事は生きる為の食事とトイレに行くことだけ。
それでも私は自分自身を何とかしたいと思っておりました。
同時に私はできる事なら消えてしまいたいとも思い続けていました。
ですが、私は自ら自分を捨てる事はできませんでした。
私は毎晩のように二度と目が覚めないことを願いながら眠りにつきました。
私がこれまで何度となく死を意識し、またそれを望み行動した事もありましたが、多くの場合それを思い止まることになる理由の一つは、私に関わる人に不快な思いをしてほしくないという事と、もう一つは私がこの生命といった現象について納得のいく答えを得られていないという事でした。
私は自分という存在、そして人生と呼ぶものに対して、それがどれだけの価値を持つものであるのかをまだ理解出来ずにおりました。
価値があるのか、無いのか分からないものを簡単に捨てる事に躊躇いがあったのです。
私は答えを求めました。
私はその答えを得ることさえ出来れば、もう死んでもよいとすら考えていたのです。
「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」
「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」
などというような事でしょうか。
それは生きる為の理由探しではなく、人生を納得して終わらせる為に必要な答え探しであったと言った方が、当時の私にとっては適切な表現でした。
私の身辺は年齢を重ねるごとに簡素になり、
人との付き合いも減り、
私は益々人生の終わりへ向けての答え探しへと沈み込み、死期を悟った猫のように苦楽を共にした友人達からも離れました。
私は最低限の暮らしの中で、気がつけば何年もの日々をそうして過ごしました。
これが悪いことかと問われれば、そうではなかった事も確かです。
石ひとつ
坂をくだるがごとくにも
我けふの日に到り着きたる
私はある頃から毎日のように山に入るようになりました。
自然の声をより感じる事で、家や街中にいるよりも自分の中にある感覚を辿るのにその方がうまくできそうな気がしていたからです。
山の中は本当に静かです。
鳥の鳴き声と、風の音だけが聞こえます。
こういった音は私の心をざわめかせる事はありません。
たとえ静かな家の中で過ごしているとしても、以外にも様々な人の生活、社会の活動的な音は聞こえ、無意識の内にそれが精神的な不協和をもたらしていることもあるのです。
私は人の来ることがない、お気に入り場所でぼんやりと過ごしました。
そんな事を数ヶ月もやっておりました。
ある日、私は私の求めた答えを得ることができました。
その日も山の中に居ましたがとても心地よい気持ちが湧いてきましたので、あの日のことは生涯忘れる事はないでしょう。
求めていた答え、納得できる認識へと達した私ですが、結果的にはそれを得た事を理由として自ら人生を終わらせる事はありませんでした。
これはポジティブな解答を得たことで前向きになれたといったことではありませんが、ともかく私という現象は終わるまでは続くと言えますし、始まっていないとも言えます。
仮に私の最期が自死であったとしても、それは私の選択であるようで、そうではないのです。
(もちろんその他の環境や誰かの責任という解釈ではありません。)
私は、私一個の生と死に対する理解を求めた結果、私自身の内側を深く覗き込み、それはいつからか外側へと繋がり、広がり、めぐり、森羅万象の極みで全体を理解し、また同時に個の理解へと至るのです。
私はこれらの経験を悟りの体認であると理解しました。
それ以降認識?(解釈とも言えるかもしれません)は深まり続け、今は落ち着いてきているような気もします。
私が社会や環境から受け取るストレスは表面的にはその形態を変えてはいるものの、私が受け取るストレスの多寡は今以て相変わらずで、ストレスは常に受け取りつづけているのです。
悟りとは仏様のように穏やかな微笑みを浮かべて、一生安心と幸福感に包まれて生きていけることではありません。
それは自我が消滅したあとの「全」の認識を擬人化したに過ぎないのです。
「意識」を持つ限りは相対的な認識の中で現象を経験し続けるのです。
それはつまり「全」の観察者であるということ。
意識の本質です。
(意識と自我は異なるものです)
悟りの領域とは、真理を見極めたのち、この空蝉の現象世界での認識の中で生きていくこと。
そして今この瞬間ですら悟り、涅槃そのものであるという事を知るということなのです。
高悟帰俗……高く心を悟りて俗に帰るべし
こんな言葉で表すのもよいかもしれません。
私はこのnoteの中で運命(人生)にコントロールは無いと何度か書いています。
これからも何度も書く事になるかもしれません。
コントロールはないのに、ああしよう、こうすればと自我という個の主体を通した表現をする事で、私の言うところの本質から矛盾した事を言っているじゃないかと思える内容をたくさん書くかもしれませんが、これは矛盾しているわけではありません。
本質的な事は、いずれより丁寧な表現、言及ができればなと思っております。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
雨
止まない雨が降っている
悲しくて
悲しくて
悲しくて
私を潤す
かなしくて
かなしくて
かなしくて
根から腐り出す
カナシクテ
カナシクテ
カナシクテ
雨はどこから降ってくる
山を流れ
空を深く
海を高く
雨はどこから湧いてくる
雲の滴
草木の灰
石の呼気
雨は降っている
雨は降っている
雨は降っている
私はまだ咲いている