私のちょっと変わった被災体験 ~日常が大事~
9月1日は防災の日だった。
最近楽しみながら防災グッズを選んでいる。
今まで防災に向き合っているようで、
向き合わないようにしている部分もあった。
今日は、災害の初体験である
私の阪神大震災体験を書いてみようと思う。
私、一応阪神淡路大震災の被災者。
一応を付けるのは、
被災者というにはあまりにも
切羽詰まっていなかった。
(というか、大学1年生で
よく分かっていなかった。)ので、
とてもとても苦労された方の話を聞くと、
同じ被災者と言っていいのか、
ためらってしまう。
当時大学1年生の私は、
西宮にある大学の寮の2段ベットの上にいた。
部活で疲れ、ぐっすり寝ていた。
あの朝、ものすごい揺れが来て
ぐっすりの私も、さすがに起きた。
寝ぼけつつ「これは地震か?」と言って、
「そりゃそうだろう。」と
同室者に呆れられた。
ついでに自分の机の上がグチャグチャに
なっているのをみて、
「机の上が大変なことに!」というと、
「それは昨日からだったよ。」
冷静に突っ込まれた。
(当時はまだきれいにする力はなかったのです。)
寮の中には色々な子がいて、
揺れる少し前に地鳴りがしたから目が覚めたとか、
地面が赤く光ったとか言う子がいたり、
怖くて泣いている子もいた。
超能力者かと思った。
私はぐっすりだった。
大きな地震っぽかったから、
親が心配するかもなーと思い、
公衆電話から無事だと連絡した。
その日部活がオフの予定だった私は、
とても疲れていたので、
こともあろうか もう一度ぐっすり寝たのだった。
あーよく寝た。
談話室にだけあるテレビに人だかりができていた。
寝ぼけ眼で行くとみんなに
「もしかしてこの状況で今まで寝ていたのか?」
とびっくりされつつ、
画面を見ると見慣れた三宮の町が
大変なことになっていた。
今日センター街に買い物に行こうと思ってたのにー!
と、言うレベルではないのだな。と
だんだん頭が冴えてきた19歳の私。
これはもう一度自宅に電話した方がいい
と思ったが、皆に全くつながらないよ
と言われた。マジか。
こんな時でも、一番怖いのは先輩だった。
部室に行ってみた。
同級生部員が何人か来ていた。
テニスコートに何本も地割れの後があった。
まだ事の次第がよく分かっていない私たちは、
これでしばらく練習はできないことに大喜びし、
とりあえず先輩から連絡が来るまで
寮に帰ろうと言うことで別れた。
帰りに、コンビニに寄ろうとして固まった。
ない。
陳列棚に何もなかった。
え。
だんだん、本当にヤバいことが分かってきた。
私たち大丈夫か?
ご飯食べられるのかな?
寮に戻ると
「大学はしばらく休みになります。
今晩のカレーライスまではありますが、
明朝からご飯はありませんし、
寮も閉めます。自宅に帰りなさい。」
いきなりの通達。
いつもの帰省ルートは被災地で帰れない。
ひとまず、大阪の親戚宅に
行かせてもらうことにした。
親戚の家でやっとゆっくり被災地の情報を見る。
知っている街が、大変なことになっていた。
大変さがやっとやっと分かり、
恐怖が襲ってきた。
そこで初めて号泣した。
次の日、帰れるルートを見つけて
電車に向かった。
考えることは皆同じ為、
乗車率200パーセントを超えていた。
何とか入り込み、列車の連結部分に3時間。
2月の寒い日だったが、
帰らねばと我慢して過ごした。
そして1ヶ月半。
実家でのんきに暮らす。
いい感じに太り、ぼんやりしていたら、
「部活を再開します」と
先輩から悪魔の通達が来た。
寮が閉まってるのに?
ライフラインもまだ止まっているのに?
先輩は誰一人、うちに泊まればいいよ。
とは言わない。
でも、部活はやる。
これが、体育会系。
シンジラレナイ。
さて、どうする?
当時1年生は下宿5人。
皆で考えた。
一人のバイト先のちゃんこ屋は
住み込み用の部屋がある。
「閉店の片付けをバイト代なしで手伝うから、
住まわせてください。」と頼み込んだ。
寮から自転車で一人分の布団をよろよろと運ぶ。
6畳二間は5人分の布団でいっぱい。
それでもなんだか楽しかった。(はじめは)
一日中部活をして、一度寮に戻って風呂に入る。
(寮はボランティアの学生のために空いていた
ので、風呂だけと頼み込んだ)
そして、ちゃんこ屋の宴会の後片付けをしながら、
そこの残り物を晩ご飯として食べる。
食べながら、片付ける。立ち食いだ。
そして、雑魚寝して、朝になると
スーパーで安くなっていたパンをかじり、
また部活へ行く。
たいした強くもない部活だった。
思い出して、書きながら泣けてきた。
乙女盛りの大学1年生がやることにしては
サバイバル過ぎる。
そうこうしているうちに、
だんだん復興が進んだ。
ライフラインが全部復旧し、
大学授業再開のめどが経った時、
寮も再開された。
私は一人暮らしの部屋を見つけ、
そこへまた自転車で布団を運んだ。
青春の一ページだ。
でも、その後いろんな話を聞き、読み、
大変な時だったと追体験する。
あの時、あの時代のほんの端っこに
自分はいたのだなあと思う。
あのとき命を落とされた人や、
自分の責任を全うしようと奮闘した人
のことを思う。
本当は部活なんてしていないで、
ボランティアとか行けば良かったのか。
どうすれば良かったのか。
でも、あのとき私も精一杯自分を生きた。
答えは分からないけれど、
あの時の疲れて寝てしまった恥ずかしい気持ちや、
寒い連結部分に耐えた隙間風の冷たさや、
手足を伸ばせずに雑魚寝したあの部屋の匂いや、
布団を運んだ自転車のハンドルの重たさを
私はきっと忘れないのだと思う。
その感覚を抱えて生きていくことが、
災害後を生きるということなんだと思う。
正しさやあるべき姿は私には分からない。
あのときに感じた感覚たちが、
今の私の防災意識につながっているのだと思う。
だから、できるだけ楽しんで防災グッズを
選んでいきたい。
当たり前の日常が、
安心して過ごせる日々の営みが、
どれだけ素晴らしいかをあのとき知ったから。
非日常を過ごすときでも
普段に近いものが、いかに心の安定を支えるか
知っているから。