「推し、燃ゆ」に八つ裂きにされた。

推しに、「推しは神なのか、悪魔なのか?救いは無いのか?」と問われた。推しに「推し、燃ゆ」を読まれたのは本当にまずい。勘弁して欲しい。

神でも無いし悪魔でも無いから。あなたは生きている1人の人間だから!と咄嗟に思ったが、実際には私は時々推しにすがる。人間関係が辛いとき、大失敗して自己肯定感が地の底まで落ちたとき、やらなきゃいけないことにいよいよ向き合うとき。

推しのラジオを聴きながら行きたく無い場所に行く日もあるし、終われば大型歌番組で歌う推しが見られると自分を勇気づけてバイトに行く日もある。

推しへの気持ちは信仰心なのか、それとも現実逃避なのか。推しが好きってどんな感情なんだろうか。「推し、燃ゆ」は“推す私達“と“オタク垢“をドロドロに煮詰めた作品だ。

ここから宇佐見りんさんと“推し“の対談が読めます。

以下ネタバレを含みます。

私とほとんど同い年の作者が描く、推しのいる生活はあまりにもリアルで痛々しく、読んでいる私は生爪を剥がされるかのような苦しさだった。

同世代にこんなにもえげつない文章を書く天才がいることにも嫉妬しそうになる。

「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。まだ詳細は何ひとつわかっていない。何ひとつわかっていないにもかかわらず、それは一晩で急速に炎上した。」

この冒頭で物語は幕を上げる。

主人公のあかりは高校生。勉強もバイトも家族との関係も生活すらままならないが、推しについて考えているときだけは生きていることを実感する。推しにだけは自分の100%を注ぎ込んで応援できる。あかりを構成する色は青、それは推しの色だから。そんな時、推しがいなくなってしまう。あかりが毎日をなんとかやり過ごすための背骨が消えて、なくなる。


あかりが落ちたのはワイヤーに吊るされて飛ぶ推し、真幸。覚えがある。

私の推しはピーターパンではなくヴァンパイアだったが。


推しが燃える。覚えがある。

2018年当時受験生の私は部活を終え、教室で自習した帰り道、信号待ちで開いたLINE NEWSの画面に先月ライブで見たばかりのアイドルたちの顔が映るのを見て凍りついた。隣で自転車に跨る友達は、「えっ…」と言ったきり私をチラリと見て、もう一度画面に目をもどす。ぞくっとしたのは夏服には少し寒い梅雨の日だった事だけが理由じゃないと思う。スマホの電源を落として胸ポケットに滑り込ませ、なかなか変わらない赤信号をぼうっと見るしかなかった。

その後は最後の大会に受験勉強に自分のことで精一杯だったので、ダメージは軽い方(?)だったのかもしれないが、その日のことは鮮明に覚えている。


私にとってあかりは全然他人事じゃない。

2020年春、日本中の人が家に引き籠らざるを得なくなった。例外なく私も大学、サークル、バイト、趣味の全てが止まり、仲の良い友人は殆ど帰省から帰ってこなかった。一人暮らしの私は誰かと電話していない時間は口を開かない生活が続いた。そんな中で私は情報摂取の為にゆるーく使っていたオタク垢にのめり込んだ。

自粛がはじまった当時、ステイホームでできる趣味が推しを推すことしかなかったので、わたしは状況的にもあかりに近づいてしまっていた。

Twitterでの私は強い言葉でよく喋る。私だけじゃなくて、オタク垢の人は強い表現をする人も多い。それがSNSという世界だ。リアルを生きる自分の顔と名前ではなく、誰かを推す者としてアイコンを被り、仮名を名乗る私たちは自分のエゴを剥き出しにしてしまう節がある。実際には「推ししか勝たん」なんて言わないし、「泣いた😭」と打ち込むがそんなに軽率には涙は出ない。(毎秒顔がいいとは本気で思ってる笑)

SNSで強い言葉を用いて推しを褒めちぎったり大袈裟に解釈する事で、私たちは自分の打ったツイートに、見慣れたアイコンが発する言葉に酔い、飲み込まれていくところがあるのではないかとさえ思う。


あかりの“推しを解釈する“というスタンスはめっちゃわかる。推しのことを完全に理解できるなんて思えるはずも、できるわけもないけど。アイドルというのは生きた人間を消費して楽しむコンテンツだということは忘れないでおきたい。

私は公式が解釈の余地としてこちらに提供してくれた部分だけを大人しく解釈しておきたい……つもり……(推しが書いた小説が読めたり推しが作ったソロ曲がいっぱいある以上解釈したくなるのも仕方なくない?って言い訳しておく。)

「携帯やテレビの画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりのぶんの優しさがあると思う。」

引用部には心底共感した。頼むからこちらを認知しないでくれ、一方通行のファンで在りたいというのにもめちゃめちゃ“いいね“を押したい。(でも、そう思うなら公式にリプはしないでしょうあかりちゃん、とは思った。)

NEWSに恋してという推しグループと疑似恋愛するアプリがどうしても苦手だったのもこの感覚が作用してると思う。ただ、「おれのうちわが一杯ある。」の“一杯“としてぼんやり写ってて欲しい。(ファンサされたら泣いて喜ぶけどね!!)

推しがやることなすこと全てを肯定したいわけでもないというのもほぼ私だ。

推しのことを尊敬してる部分もあるので私の方があかりよりヤバい所もあると思うし、自担に影響を受けまくってるのも事実。

私じゃなくても、Twitterのタイムラインには“あかり“が溢れている。

推しがロケで行った場所に“聖地巡礼“に向かうアイコン。推しのアクスタやぬいぐるみとスイーツビュッフェに行くアイコン。推しの色に包まれて生活するアイコン。推しの誕生日に推しのネームプレート付きのケーキでお祝いするアイコン。アルバムやシングルを積むアイコン。

推しが「アイドルなんて狂ってなきゃできない」「狂ってるよ、おれも、シンメも」というならば、推しを推すオタクも多少はあかり要素がある。


冒頭にもどるが、私たちは推しに問われた。

「推しは神なのか、悪魔なのか?救いは無いのか?」と。

やっぱり推しは人だし神でも悪魔でもない。推しを推した先にあるのは、希望でも絶望でもない。現実だ。ただ月日を経た私だ。

推しはいつかいなくなる。それはこちら側が推すのを辞めるのか、推しが推される側からいなくなるのかはわからない。されど、いつか終わりは来る。

でもその時、わたしの人生は終わらない。

推しはあくまで楽しむコンテンツの一つに過ぎない。それは救いでもある。

わたしはわたしの中に核を持ち続けているし、わたしにはわたしの生活がある。洗濯物は回さなきゃならないし、課題はやらなきゃ終わらない。(辛い。)部屋を片付けなければやる気が出ないし、人を呼べない。バイトをしなければ可愛い服も綺麗なリップも買えない。

行き着くところまで行き、推しという背骨を抜かれたあかりちゃんも生きていく。這いつくばりながら、自分のままならなさに苦しんでどうにかしていくしかない。しんどいけどそうするしかない。最後の描写、自暴自棄になりつつも投げたのは“片付けが簡単な“(?)綿棒。これまでの自分と“推し“の遺骨を拾うあかりちゃんは生きていけるような気がした。


どこかのノルウェー人ベリヲタが言っていた。「アイドルは探すものじゃなくて、向こうからやってくるもの」だと。

ならば、オタクが推しを推すのをやめるのは、「推しを推さなくてもよくなった時」「推しが推される対象ではなくなった時」ではないか。

ノルウェー人ベリヲタは、こうも言っていた。「最後まで僕を幸せにしてくれた。これからもずっと幸せさ」さすがももち。

いつか来る終わりの時、私もこう思えてたらいいなぁ…。


NEWSのファンで楽しいと思える間は、私が推すことに幸せを感じていられる間は、楽しく推していけたらなぁと思っている。




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