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孤力
昔、よく母が嘆いていた。
うちの父ちゃんは猫みたいや。
もーと、ひとりで寝に行かん。
人のおるところがいいがやて。
父は、母が寝室に引き取るまで、自分も茶の間に居続けた。
母は、まるで子供を寝かしつけるように、父を寝かしつけていた。
飲み会でも、父は途中で席を抜けることはけしてなかった。
誰かいる限り一緒にいて、最後の一人になったときに渋々店を出る。
そして、そういう気質を存分に利用されて、いつも支払いをする羽目になっていた。
それがわかっていても、たとえ有り金全部支払って借金を背負ったとしても、父は「誰か」と一緒にいたがった。
母はときどき、私にだけこっそりと言っていた。
一人の時間が欲しい、と。
しかし、その母もまた、一人で旅行に行ったり食事をすることは嫌がった。
私が一人で旅に出るのを、心配するだけでなく不思議がった。
一人で行って何が面白いのかと。
一人でご飯食べても美味しくないでしょ、と。
いや、私は。
一人で食べるご飯も美味しい。
一人だから淋しいと思ったことはない。
それは、好きな誰かと一緒に食べる楽しみとは別のもの。
優劣をつけたくもない。
しかし、ずっと一人の食事が続いても何とも思わないが、ずっと誰かと一緒のそれが続くと、結構うんざりする。
離婚したり、お金のために間貸しした人を追い出したのは、私が「誰か」と一緒にいるストレスを人並み以上に感じる性質だったからだろう。
どうして「一人」には「淋しい」というイメージがあるのだろうか。
「孤食」の持つ否定的なニュアンスが私は嫌い。
社会を構成する最小単位である家庭を始め、いかなる集団にも属さない者は、イコール社会が求める奉仕や規範を尊重しないけしからぬ不届き者というイメージを、支配や管理をする側が作り上げて、それを巧みに「淋しさ」に置き換えていったのではないか。
そもそも「ひとりぼっち」は、「独法師」が転化したもの。
特定の宗派や教団に属さない僧侶のこと。
管理したがる側の人、社会そのものにとって、扱いにくい対象だったのだろう。
「ひとりぼっち」という言葉は、そういうマイナスイメージのためのプロパガンダのようにも感じられる。
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「孤力」と書いて「こりょく」と読むことにしている。
狐力ではない。
狐力だと、化かす能力のような感じがする。
それはそれで、あれば都合がいい。
そんな言葉があるか知らない。
私が勝手につくったのかもしれない。
孤独を求める力。
孤独を楽しむ力。
政治や行政の不備をごまかすためか、世間は「家族、家庭」とかまびすしい。
災害が起こると、やたら「絆、絆」になる。
人との繋がりは確かに大切だが、政府に世間にもそればかりを説かれると、いささかげんなりする。
昔は、犬は人につき、猫は家につくと言われた。
本当かどうか知らない。
幼いころ私と暮らした猫は、家についていたと思う。
猫は、命の終わりになると、人も家も離れて、誰にも知られずに死ぬというのを聞いたことがある。
それについても本当かどうか知らない。
でも、もしそうであれば、その死に際には憧れている。
今日は猫の日だそう。
孤独を慰めるために、猫や犬を飼えばと言ってくれる友達もいるけれど、私はもう他者の命を差配する勇気はないし、そもそも孤独は慰めるべきものでもない。
孤独は、淋しさではなく、呪縛からの解放である。
その解放を手に入れるための力もまた孤力。
※投稿したら「500日連続投稿」という表示が出た。
だからなにってわけでもない。
暇人の証明にすらならない。
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