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他人の距離感

ドラマ「団地のふたり」の最終回を見た。
ロケ地となった団地は、元彼の家の近くにあって、昔は団地内の公園やスーパーによく行ったものだった。
その時点ですでに「古くからある」という印象だったが、いま検索してみるとかつての面影のないリノベされた分譲物件の画像がヒットした。

小学校4年の途中から大学1年まで過ごしたアパートの近くには、それなりの規模の団地がある。
中学校の同級生も多く住んでいて、その頃はそこそこ友達もできていたので遊びに行くこともあった。
ダイニングキッチンとか、ホームドラマみたいだと思った。

近くの歩道橋の上から夕陽に照らされる団地群をよく眺めた。
どこの家庭も何かしらの問題はあったのかもしれないが、私には平穏に見える。
暮れるにつれて部屋の電気がポツンポツンと灯っていくのを見ながら、あの中のひとつと私の家庭がそっくりそのまま入れ替わってしまうことを妄想した。
お金持ちの住むような高級マンションとか真新しい大邸宅じゃなくて、たぶん賃貸の、エレベータもない、その時点ですでに古い団地に憧れるなんてどうかしてる。
私は「家」ではなくて、みんなと同じような「家庭」を求めていたのだろう。

今年の春、10数年ぶりにその町を訪ねた。
かつて私が憧れた団地は、数棟を残してみな建て替わっていた。
5階建てだった建物は、倍ぐらいに背を延ばしている。
残された棟も、周囲を工事用のフェンスが囲んでおり、解体中と思われた。
戸数を増やして分譲として売却するのかもしれない。
であれば、賃貸で住んでいた人は、もうここには戻れないだろう。
半世紀以上もそこで暮らした私の同級生たちは、子供たちと同居のため引っ越して行ったのかな。

「団地のふたり」では、建て替えのため息子一家と同居を始めた「佐久間のおばちゃん」が、気の遣い過ぎで疲れ果て、建て替え中止になった団地に戻ってくる。

そうなの。
加齢につれてどんどん「他人の距離感」が心地よくなってくるのよな。
絆の深さには関係なく、「家族」という縛りだけでしんどい。
あるいは佐久間のおばちゃんのように息子が「他人の距離感」を保とうと気を遣い合うのも疲れる。

なっちゃんとノエチがいい関係を保てるのも、他人だからだと思う。
大晦日を共に過ごしても、ノエチには別棟での親との暮らしがあり、彼女が帰ってしまえばなっちゃんは独りになれる。
だから、ふたりであることを心置きなく楽しめる。

離婚したばっかりや介護が終わった当初、私が一人暮らしになったというので友達が次々に遊びに来た。
昼間から飲んで食べてしゃべって、おススメのドラマを一気見して感想を言い合った。
「家族」という呪縛から解放された私は、その時間を十二分に楽しんだが、夜になると内心「帰ってほしいな」と思った。

でも、くつろぎに慣れてしまった友達は、なかなか帰らない。
電車を乗り継いで家まで帰るのが面倒なのだ。
夜遅いし、お酒も飲んでるし。
それで、泊まっていいかと訊くのだが、こういうときイヤとなかなか言えない。

そのうち、会うのは「店で」と私が注文をつけるようになった。
家で飲み食いするのは、「夜になれば自宅に帰る」他人の距離感を保てる人だけと決めたのだ。
それで親密さが薄れてしまうなら、それでいい。
むしろそのほうがいい。
コロナはそれに拍車をかけた。

いまは、お隣の友人くらい。
大晦日を一緒に過ごしたこともある。
紅白を一緒に見ても、ゆく年くる年の冒頭になったら、彼女はちゃんと帰るから。

ドラマの最後の「ふたり紅白」の場面は、世代が近いせいかひとりで大ウケした。
カラオケじゃないところが何よりいい。
そういえば、昔、親が見ていた懐メロ番組では、いまは「ウェディングベル」や「完全無欠のロックンローラー」が聴けるのだろうか。


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風待ち
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