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キーワードに支配されないように

学生時代には、こっそりとほかの学生のレポートを書くというバイトをしていた。
ほとんどは聴講していない科目なので、できれば講義の「ノート」が欲しいが、お金を払って他人に代筆を頼むような学生は、そもそも本人も出席していないし、していたとしてもまともなノートは取っていない。

なので、その講師の著書を借りるか買って目を通すことが多くなる。
もともと私自身の興味が薄いから取っていない科目。
「仕事」でなければ手にする機会もなさそうな内容の書籍を資料として読む。

その後も、正業の会社勤めとは別に、副業としてひとさまの文章に手を入れる仕事が長い。
自身の体調不良や介護もあったから、そういう副業に出会えたことは経済的にも精神的にもありがたいことだった。

ここでも、仕事でなければ目にすることもなさそうな資料に目を通す。
まったくの門外漢であることも多い。
素地がないから、資料を読んでもチンプンカンプンということさえある。

インターネットが普通にある暮らしになってからは、仕事の際は、なんのことやらさっぱりという語句だけでなく、自分の解釈がこれであっているか自信がないようなものも、片っ端から検索する。
noteのような私的なものは、曖昧なものでも、一人合点な思いもバンバン載せている。
それが報酬をいただかない文章を書く楽しみ。

個人の娯楽としての読書ではなく、仕事の情報収集で文章を読む機会が多くなると、だんだん読み方が早くなる。
納期もあるし、場合によってはさらに別の資料も当たらなければならないとなると、あまり悠長に構えてはいられない。

すると、どうなるか。
目で文字を追うときに、一言一句ずつではなく、ある程度の塊で視界に置き、そこから脳が瞬間的に「重要」と思われる語句を拾うのである。
塊の中から見つけたキーワードをつなぎ合わせることで、全容を把握する。
いや、把握したような気にさせる。

ひどいときは、小見出ししか読まない。
内容を端的に表現している適切な小見出しだとなおさらだ。
小見出し同様、本文もまた巧いのに、小見出しが適切であるがゆえに本文が読まれないという矛盾が発生する。
そうしてこれは、キーワード同士を自分の想像がつないでいるわけだから、書いた人に失礼なだけでなく、非常に危険なことである。

だから、仕事以外で文章を読むときは、小見出しや太字に引っ張られないようにと心がけている。
書き手が強調していないところにも、共感や違和感を持ちたい。
むしろ、そういうところに書き手の本音や人間性が滲むのではないかという期待もある。
一見、どうでもいいような一文が、当人も自覚していない伏線になっていることもある。
その発見もまた楽しみである。

できれば、句読点や改行も含めたすべての構成要素を味わいたい。
紙の書籍なら、文の下に広がる余白の面積も大切だ。
それらが自分と似ていると、書かれている内容とは別のところで大いに共感し嬉しくなってしまう。

私がここの文章に小見出しをつけないのは、そういう理由がある。
太字も使わない。

愛読しているこんぶさんの記事に、
「ネットで炎上騒ぎがあるときって、文脈を考えずに「ことば」に直情的に反応している人が多いような気がします。」
というのがあって、思わずテーブルをバンバンした。

「検索機能」を使い倒して仕事をしている私が言うのもなんだが、「検索文化」「キーワード文化」によって損なわれている、あるいは育たない感性が確かにあると思う。
誹謗中傷や犯罪の可能性のある投稿をAIが探知するのに、いくつかの文言を入れて抽出するように、人の脳もまた「語句」にのみ反応するようになりつつあるのではないか。
効率化とか利便性という利点でかき消されていく太字でない文章。
文末の「なのだろう」「なのだろうか」「なのかな」「なのかもしれない」の違いをスルーしていく脳。

インパクトのあるキーワードをつなぐための自分の想像は、書き手や言い手の思いに沿ったものなのか。
共感も反感も、実はキーワードをつないだ自分の想像によるものなのではないか。

何を可愛いとか何を可愛くないと思うのも、自分の経験や境遇や感覚による。
私は、自分が子を失ったとき、自慢気に写真を見せられた知人の赤ちゃんをちっとも可愛いと思わなかった。
落ち込んでいたし。
嫉妬したし。
正直、お猿さんみたいだと思った。
失礼だと思ったのでそれは言わなかった。
言ったとして、動物園で愛情込めてお猿さんの世話をしている人にしたら失礼ではなく、「でしょ、可愛いでしょ!」と思う可能性もゼロではない。

父の介護に通っていたころ、その排泄物を浴びにいく実家行きの際に、同じマンションの顔見知りに
「あら?おしゃれしてどちらにお出かけ?」と問われた。
ただでさえ鬱々とした実家行き。
作業着を持参して行き帰りくらいはせめておしゃれして気分を上げようと努めていた日々だ。

「実家まで」と答えると、先方は
「あら、いいわねぇ。のんびりと羽を伸ばして来てね。」と言った。
そうか。
彼女にとっては実家はそういうところなのだ。
彼女が実家に帰るのは、羽を伸ばすためなのだ。
その境遇の差に私は勝手に凹んだ。
「実家」って言わなければ良かったと思った。

キーワードに反応すると、思わぬところで溝や傷ができる。
自分の経験や好みによって、正反対の想像でつないでしまう。
それぞれ違った人生なのだから、それは仕方のないことかもしれないが。

だからせめて、私は全文を読もうと思っている。
簡潔にまとめているところ、強調したいところだけに留まらないで読みたい。
そして、私もそうしてもらえたら嬉しい。


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