壊す
今日は、絵を見に行こうと思っていたのだが延期した。
暑いのもあるが、先週末から体調がイマイチ。
散歩もやめて、おでこに冷えピタを貼って家でごろごろしている。
イベント屋の友人に頼まれて、美術展の設営や受付を何度かやったことがある。
結婚していた頃、父の介護に通う前は、こういうスポットの仕事が、堂々と土日に家を出られる唯一の機会だった。
婚活パーティーのスタッフもやったことがある。
仕事だけれど、私には「休日」。
このとき「盆石」なるものを初めて知った。
「家元」は私より年下の穏やかな雰囲気の男性。
黒い漆塗り(?)のお盆というか板に、わずかな石と白い砂(石の粉)で独特の世界を描いていく。
羽で砂をぼかし、線を斬る。
なかなか先生のようにシャープに斬ることができないんですよ、と年配のお弟子さんが仰っておられた。
展覧会前日、奈良から創作においでになるというので、是非無から有が産み出されて行く過程を拝見したいとお待ちしていたのだが、時間の都合で叶わなかった。
なるべく背伸びをして見た。
ナスカの地上絵のごとく、上から見るのがいいのだろうと思ったから。
でも。
「鑑賞者が、普通の立ち位置で、斜めに見下ろすことを前提に構図を創っているんですよ。」
手前の岩は、置いてある。
真上から見たら、置かれた岩とバックの雲や山は孤立したそれぞれとなってしまう。
けれど、斜めであれば、岩の間に雲があり山が見える。
それぞれが溶け合い、遠近を感じ、世界が広がる。
当てるスポットライトの角度ひとつにも、繊細に注文をつけた。
「実際は、山の正面に岩があったんですよ。でも、それだと構図が良くないので。」
と、若い先生は爽やかに笑った。
固定されたものはひとつもない。
だから、彼は、会期中はほとんど常駐して「不慮の事態」に備えていた。
幸いにも、不意の修復をお願いするようなことはなくて済んだ。
閉展した日の夕刻、搬出の準備をしていたら、主催者である友人に呼ばれた。
「創るところを見られなかったから、壊させてくれるってさ。」
おそらくは。
先生は、主催者に「どうぞ」と言ったのだろう。
それを、たぶん「うちのスタッフにやらせたいのだが」と依頼したものと思われる。
会期中、自分がそばを通り過ぎたり、小さなお子さんが入場すると、ひやひやしていたその作品を、当たり前とはいえ、先生は、大胆に羽箒で砂を集めだした。
で、私に、
「こんな感じに、集めちゃってください。」と笑う。
もちろん、そうしなきゃ帰れない。
いつまでも、このままであるわけはない。
ここで創るのに2時間くらいかかったと聞いている。
でも。
「構図が決まってから本番までに、実は100回くらい書いては消しているんです。」
おそるおそる壊し始めた私に、
「創るより壊す瞬間が一番楽しいという人もいますよ。」とまた笑う。
私も、時間と手間をかけて創った鉄道ジオラマを、置き場所がないという理由で、ゴジラが出た!とばかりに破壊消滅させたことがある。
「さくら、と同じですね。」
といきなり、言われた。
「そうですね。」
と自然に言葉を返した。
永遠などない。
散るもの、朽ちるもの、割れるもの、消えるもの。
それらは、それだからこそ美しい。
常に壊れる危険をはらんでいるものは、永遠に枯れない造花などよりずっと美しい。
抱きしめたいけれど、手を触れれば壊れてしまう、そういうものがいとおしい。
羽箒と小さな刷毛でかき集めた砂たちは、元のただの石の粉になった。
さっきまで、見る者に感嘆の言葉を促したものは、小さな箱に収まり、集め切れないものは雑巾で拭き取られた。
そのあまりの儚さ、呆気なさゆえに、この経験は私の中で永遠の思い出になっている。
芸術品を壊す楽しさなど、この先の人生でもうないだろう。
刹那は積んだそばから過去になる。
でも、振り返れる経験があるのは幸せなこと。