馬鹿の皮
次を剥いたら
リコウが出てくるかと
玉ねぎのように
バカの皮を
剥く
今年は正月早々に大きな地震があった。
まだ、水も出ないところがあると聞いた。
先日の台風が住まいをそれたことを手放しで喜ぶには、私はもう死を見過ぎた。
今日は私の誕生日。
下記は去年の誕生日記事。
去年の今日は、その前の年の今日は、はて、その前はどんな日だったか、朧である。
来年の今日のことを考えるのは、いささかおそろしい。
高層ビルに旅客機が突っ込んだ映像を見たのは、いつのことだったか。
震災からは、13年と半年。
災害や事故のこと、その後の暮らしのことはちっとも解決されていないような気がしている。
今日。
私は、また1枚、馬鹿の皮を剥く。
どれくらい剥いたら、何かが覗けるのか見当もつかない。
剥いて剥いて剥き尽したときに、芯には何もなかったことがわかるのかもしれない。
それは、失望なのか、それとも安堵か。
今日は、剥き捨ててきた馬鹿の皮を拾い集める日だ。
年寄りの繰り言だと笑われてもよい。
私は、私の過ごしてきた日々と、そのときどきの想いの沁みた皮を拾い上げて、ジグソーパズルのように並べていく。
そこに浮かび上がった、愚かで、弱くて、みっともない自分を、いもしない我が子のように抱きしめる。
そして次の瞬間、それらをまた放り出しては、今年の皮を剥くのだ。
皮のかけらを、マーキングのようにそこかしこに置いては、私が生きた証とするのだ。
妻を辞め、妹と娘の任も解かれ、仕事もとりあえず退職。
母でもなく祖母でもない。
私はもう何者でもない。
生きる意味とか甲斐とか、決め置く必要がどこにあろうか。
何者という色も形も枠もない人生の清々しさ。
皮は、剥く過程が楽しい。
中身を見定めてからでないと剥こうとしないのは、いかにももったいなきこと。
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