翻訳できない言葉:「スパイシーな唇」
カナダの不思議な法律の一つに「公共の場で飲酒をしてはいけない」というものがある。道路や公園はもちろん、バスや電車の中でもアルコール飲料の入れ物を裸で持っていてはいけない。そんなわけで、プルタブの開いた缶ビールを布や紙で覆って飲んでいるという、よくわからない状態の人とすれ違うことも多々ある。今日バスで見かけたある男女もそう。
華の金曜日、午後5時過ぎ。すっかり暗くなったバンクーバー、その日の気温はマイナス12度。指や鼻や耳も、何かで覆っていないと痛みを感じるほどの寒さだ。普段はそこまで快適さを感じないバスの中も、その時ばかりはまるで天国のように温かく感じられた。私は桃色の薔薇とユーカリの葉で組まれた小さな花束を胸に抱えて、揺れるバスの後方座席に座った。友人B宅で行われる誕生日会に向かう途中だったのだ。
途中のバス停で、白人系の若い女性と、濃い髭を蓄えたアラブ系の男性が乗ってきた。私の目の間、後部ドアの辺りに立ち、親密そうに話をしている。男性の持つ紙袋からは、あの硬いフランスパンの代表であるバゲットが、裸のまま斜めに半分飛び出している。女性の方は、ワインの瓶の形そのものに丸められた、もう隠す気もさらさらない茶色の紙袋を片手に掴んでいる。二人とも手袋をしたまま。女性はすでに酔っているのか、大きな声で笑う。緩く巻いたブロンドの髪がゆらゆら揺れた。
途中で彼女が、男性に向かってゆっくりこう言ったのが聞こえた。
So, my lips taste spicy.
え、と思って目を上げると、女性が大きく一歩男性に歩み寄り、自分の顔を相手の目の前に急接近させているところだった。自分の唇がしっかり相手に見えるように。
耳半分で聞いていた話しの内容は、プランプ効果のあるリップグロスを今日はつけてきた、だから唇が辛い、といったものだったと思う。数年前から主流になった、唇の血行を促進してふっくらさせるために、カプサイシンが配合されているリップグロスのことだ。なので着けてしばらくは少しピリピリする感触は確かにある。ただ、それに乗じたキスのおねだりは今までに聞いたことがなくて、興味がそそられた。
My lips taste spicy. マイ、リップス、テイスト、スパイシー。どう訳すのが一番適切なのだろう。
意外性に溢れた、素敵な台詞だと思った。Spicyは単に「舌が痛みを感じている」という意味での辛いとは違う。文字通り「スパイス」つまり香辛料を意味するので、ピリッと痺れる感じや、香ばしいという意味合いが強い。例えばSpicy foodと聞くと、いろいろな香辛料が使われているエスニックカレーが連想できる。その味や香りは、日本のザ・家庭の味である「中辛こくまろカレー」のような、馴染み深くてほっとするものではない。大量のスパイスが混ざり合い、刺激的でユニークな見た目と香り。スプーンで掬って、口に入れるまで味が予測できない、そんなドキドキとワクワク。そういう異国情緒溢れるカレーを想像する。
食事以外の場面で使うなら「面白い、際どい」と言う意味もあるのがSpicyでもある。例えば誰かが他の人を皮肉ったりするときに「かなり辛辣だけど面白いジョーク」を言った時などに、That is spicy! と返すこともある。
まあそんなわけで、酔った彼女のスパイシーなくちびるが、その後どうなったか。
公共の場で若いカップルがいちゃついたりキスをしているのは、こちらではよく見る風景ではある。しかし当の髭の男性はポーカーフェイスのまま、唇を眼下に見据えたまま普通に会話を続けていた。その後バスが揺れたので、二人は私の向かいの席に並んで座ったが、特に手を握るでも腕を密着させるでもない。二人の間に親密な空気は流れてはいたので、まあ「公衆の面前ではいちゃつきません私は」という方針の男性なのかもしれない。目的の家に着いたら、おしゃれなブルスケッタをつまみにワインで乾杯して、恋人同士でロマンチックな金曜の夜を過ごしたかもしれないし。それにしても、あの二人の関係がちょっとだけ気になった。女性は、男性がバスの中ではいちゃつかないことを知った上で、あの行動をとったのだろうか、それはそれで挑戦的というか、格好いいような気もしなくはない。
もし私がコスメ好きだったら、その女性がどんな化粧をしていたか、どんな服装だったか、唇は何色だったか、ちゃんと見て覚えたと思う。目で追っていたはずなのに、不思議とそれらは全く覚えていない。ただ彼女の動きと、話し方と、何よりあの歩み寄る場面とセリフだけが、今も強く印象に残っている。
誰か英語劇を書いたり、山田詠美さんや江國香織さんみたいな素敵な恋愛小説を書く方がいらしたら、どこかで使ってくれないかな、このマイ、リップス、テイスト、スパイシーの台詞。でも日本語だったら、どうやって訳したら一番雰囲気が伝わるのだろう。「私の唇、今日はスパイシーなの。味見してみる?」だなんて、言う人を間違えたら、香ばしいどころか臭いセリフになってしまいかねない。だからこそ素敵な空想の、物語の中でこそ活かされて欲しい言葉である。
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