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安堂ホセ『デートピア』
こちらの芥川賞も読んだ。
1 私の世界は狭すぎる
『ともだち賛歌』という歌を知っているだろうか。『デートピア』を開いて最初、まず浮かんできたのはこの歌詞だった。
ゆくてはアフリカ ポリネシア みどりのもり
そして思った。え、この歌、おかしいよね?ポリネシアって、アフリカじゃないよね??恥ずかしながら、ポリネシアについての知識がなさすぎるけど、アフリカじゃないことはさすがにわかる。
でも、幼稚園でこの歌をならったら、ポリネシア=アフリカにあるって思わない?
そういうつもりじゃなかったとして、「アフリカやポリネシアに行こう」みたいな意味だったとして、この二つを並列にならべるのもなんかおかしいし。もやもやもや・・・
こういう「気づき」と、「無知と思い込みの恥ずかしさ」に溢れた小説。それが『デートピア』。
最初は、文体に違和感があった。普段よく読んでいる本とは何か違うな、ということが1ページ目からわかった。『 』の連続で登場人物が話すのがまどろっこしい・・・これは番組のキャプション、っていう設定。
まずはこの「設定」の妙に驚く。女性一人、男性十人のリアリティショーだけれど、時系列に話が進んでいくのではない。さらに、配信される「本編」以外の登場人物の生活をいくつものカメラが追っている、という設定。
さらにさらに、これがポイントだと思うのだけど、この小説自体も、「本編」を中心に話が進むわけではない。「本編」の結末は、驚くほど早く明かされてしまうしね。
「デートピアの過程と結末」=「この小説の書きたかったこと」ではないのだ。
これを理解するのに一苦労。
けど、考えてみれば、現実ってそうなっている。
私が見えている世界は、私が「編集」した、現実の一部分でしかない。私は自分を含めたほんの少しの登場人物と、私のカメラに映る部分だけを使って世界を切り取り、都合のよいように編集している。
この世界にはいくつものカメラがある。デートピアの視聴者は複数のカメラが写した場所や登場人物や時間を選んで、好きな配信映像を見ることができるけれど(それでも場所×人物×時間の組み合わせは膨大にあるから、すべてを視聴することはできない)
私たちは、自分というひとつのカメラと、直線的な時間軸でしか、物事を捉えることができていないのだ。
私の見えている世界は狭すぎる。何度もそう思った。
2 キースの物語 モモの物語
この小説は、途中から語り手の正体が明らかになり、十人のMr.のうちの一人、「キース」を主人公とした「物語」となる。キースの物語はどこまでも深くて暗い。
この小説の流れと結末は、賛否両論あるだろう。私はキースの物語やモモの視点からたくさんのことを知り、考えたから、文学はこれでいいんだ、って思う。誤解を恐れずにいうと、むっちゃ芥川賞作品だな、って思う。
「もっとデートピアの続きも知りたいし、他の登場人物はどうなったんだ!!」という気持ちは確かにある。そして続編とかサイドストーリーとかいくらでも生まれそうなところが、小説として厚い。
「えーめっちゃ色々あったよ」モモは言葉を迷いながら答えた。あたりまえだった。
最後の最後、モモのこの言葉がすごくいい。この小説だけ読むと、モモはキース中心に生きてきたように見えてしまう。けれど、違うのだ。
モモの物語の違う「バージョン」を読みたい。
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