【映画感想】お早よう(1959年 日本) もりたからす
監督 小津安二郎
脚本 野田高梧、小津安二郎
出演 佐田啓二、久我美子、笠智衆、三宅邦子、杉村春子、他
過去何度も観て、DVDも買った映画でも、BSで放送があるとついまた観てしまう。それが大好きな小津安二郎ならなおのこと。
小津安二郎のカラー2作目『お早よう』はおならの映画である。徹頭徹尾、子供達がおならをしまくる。意味が分からない。
舞台は東京郊外の新興住宅地とやら。そう言うと聞こえは良いが、私には土手沿いの長屋にしか見えない。建売の、ずらり並んだ見た目そっくり家屋に暮らす各家庭には、それでもそれぞれ経済格差などあるようで、婦人間には感情のもつれも見え隠れ。
子供同士の仲は良く、大流行しているのが「おでこを押したらおならをするゲーム」。本当に意味が分からない。
徹頭徹尾おなら映画だと先に記したが、正確には冒頭と末尾で一度ずつ、子供の一人がおならに失敗して漏らしてしまう描写がある。谷崎潤一郎の名作『細雪』に匹敵する、文学的下痢描写。その高い芸術性には溜息しか出ない。勘弁してくれ。
子供達はより良いおならのために努力を惜しまない。軽石が良いと聞けば早速それを削り、ぺろぺろと経口摂取に勤しむ。
軽石とはつまりあれだ、実家の風呂場に置いてあって、おじいさんとかが踵をこするやつだ。通常、「ぜひ舐めたい物ランキング」の上位にはこない代物である。
私は未婚者で、子育ての経験もない。従ってこれは想像になるが、自分の子が「おならがよく出るようにと思って軽石を食べていた」という事実に直面した場合、対応にひとしきり悩むだろうと思う。
そりゃあ病院には連れて行ってやりたいけれど、脳から肛門まで心配な部位が多すぎて、何科が妥当か見当もつかない。
本作はどうも、ユーモラスな映画として評判らしい。子供がメインで、おならばっかりしているから?
私からすれば、小津作品は大抵が上品なユーモアとペーソスに満ちた傑作であり、本作は例外的にそれら繊細な情感に欠けた駄作だ。子供達が額を押し合い、順におならをするのって本当に面白い?
小津安二郎は本作の前年には『彼岸花』を、翌年には『秋日和』を監督している。いずれも名作だ。それなら私も文句はない。
もし本作『お早よう』が、例えば前後数年で唯一の監督作品であったなら、私はメロス並に激怒し、メロス並に走って小津の別荘に乗り込み、王様とセリヌンティウス、もとい小津安二郎と野田高梧に向かって「大酒を飲みながら脚本を書くな!」と怒鳴りつけていたかもしれない。ことおならに関してはそれほどに、悪ふざけとしか思えない。
大体私は、小津映画に出てくる子供が嫌いだ。小津の描くガキンチョときたら、どいつもこいつも我儘で、さかしらで、身勝手で、強欲で、こまっしゃくれて、屁理屈こきで、生意気で、いっそ醜悪。
監督として小津が演者に強く求める「型」の在り方、あるいは枠、もしくは規定、とでも呼べる独自の映画作法は、人物造形から個性を排し、その分だけ作品は普遍性を得ている。
それがどうして子役にだけは上手く機能しないのか、不可思議千万。とにかく、小津作品の子供はいつだって無神経に大人を蔑み、彼らの感情を害することでしか存在を維持できない。
もし無人島に小津映画を一作だけ持っていけるとすれば、私は戦後作品をかたっぱしから再視聴し、子供が出てこない名作を慎重に選定する。
それほど嫌いな「小津の子供」が主体となる映画だから、長らく私の『お早よう』評価はごく低かった。
それが今回、改めて観て、子供パート以外はそう悪くもないな、という気になっている。
市井もの、長屋ものとして観ればこれは確かに、ユーモアも効いていて、もしかしたら傑作の部類ではないか。
まずもって、おばさん連中が絶品。上品な三宅邦子と、下卑た杉村春子の小津的好対照はもちろんのこと、長岡輝子もたまらない。小津作品の名脇役高橋とよもたっぷり出ていて、いかにも「にっぽんのおかあちゃん」的な容姿なのに別に善良でもなんでもないところが最高。
婦人会費紛失にまつわる一連のやり取りは、後年の小津作品に登場するキーワード「単純なことをみんなでよってたかって複雑にしている」を地で行く巧みさで、理不尽さまでくっきり爽やかに描いているのは見事と言う他ない。
三好栄子のおばあさんも極上。見た目のインパクトとしては、小津作品中の頂点ではないか。仏間や土手でずっと何かに祈っている姿の面白さは、狙いすぎているのに外していない絶妙な怪しさ。コワモテの押し売り対策として一家に一台、包丁を持った三好栄子を設置したい。
「配役」を参照すると、主演はどうも子役ではなく、佐田啓二と久我美子らしい。この二人も実に良いんだ。良いよなあ、良いよ。良いんだ。
佐田啓二は沢村貞子演じる姉とアパートで二人暮らし。佐田はこの後、『秋刀魚の味』で所帯を持ってもアパート暮らしが続く。昭和30年代の、大卒の一風景として興味深いところ。
迷子の子供を探し出し、ラーメンまで奢ってあげる優しさも、それが佐田啓二だといっそう映える。私ならアパートに遊びに来ておならゲームをしやがった時点であんなクソガキどもの面倒は一切見ない。
久我美子は、小津のヒロインとしては、原節子、有馬稲子、司葉子なぞよりやや格下の感じがあるけれど、本作にはその雰囲気が実に合っている。明るくって、親しみやすくって、ほどよく綺麗なお姉さん。
佐田啓二も、『秋刀魚の味』では岡田茉莉子と岩下志麻のダブル強烈美人に挟まれて中古のゴルフクラブ買うのにも四苦八苦だったし、絶対久我美子の方が良いって。
「好きな人の前では本音も言えず、当たり障りのない天気の話ばかりしている」と姉に指摘された佐田啓二がその後、駅でばったり久我美子と会った際、「お互いに」天気の話ばかりしてしまう描写は、本作中で最も好きなシーン。
思えば駅とは、小津映画において男女のための場である。新婚旅行も、都落ちも、ささいな会話も、思ったり思われたりも、駅のホームは全てをそっと見守ってくれる。駅では、岸惠子にさえ出会わなければ、それほど事態は悪化しない。
子供を無視した途端、この映画の語りたい場面がぐっと増えた。
・どちらも老け顔だから定年退職が早いんだか遅いんだか全く判断がつかない笠智衆と東野英治郎のおなじみ飲み仲間コンビ。
・交番に我が家のおひつが置いてあったからとりあえず抱えて帰宅する久我美子。
・「死んじゃったって良いよ、お前みたいな子」と私でさえそこまでは言っていない強烈な一言で子供を糾弾し作品を見事に締める杉村春子。
細かいセリフやギャグが活きていて、やはりこの映画はユーモラスであるらしい。大人達の関係性に変化が訪れない、家族の離散が描かれないという意味でも、本作『お早よう』は一貫して悲しみのない、ユーモアだけを描くことに小津が注力できた、例外的な作品ということができるかもしれない。