魔女になる日 さよならおっぱい プロローグ
私乳癌小説 もしくはオンタイム・ノンフィクション
2024年 10月30日
一昨日の10月28日、私は右乳房を全摘出した。今、病室でこれを書いている。非浸潤性乳管癌ステージゼロ。早期の乳癌が確定してから2か月。私は癌患者となった。その間も大学勤務は続け、入院前々日の先週末まで1限から5限まで授業をして―つまり、日常を閉ざすことなく―入院して、今やっと病室でひとりになることができた。
書くことで、私自身の無意識の海に潜水してみたいと思う。人が意識の深いところでどう感じているか、思っているのかは、自分自身にもわからないものだから。
このオンタイム・ノンフィクション、いや、私乳癌小説には、乳癌が発覚してから書き始めた原稿があらかじめ存在する。noteへの投稿は未完のプロジェクトだ。時系列を動かしながら、幾たびも編集し、最終的には本の形にして出版することを希望している(私はもともと出版編集者で紙の本を未来に手渡すことがミッションだから)。
今、私の胸はブレストバンドで固定され、切除した右胸の脇にドレーンという管が入っている。ドレーンが皮下の出血と浸潤したリンパ液を吸い上げる。吸い上げられた血液混じりの赤いリンパ液は、赤ん坊の鼻水を吸い上げるような、紡錘型の渋柿のような形をした容器に溜まる仕組みになっている。私はその容器を大事に首からぶら下げて、病室で生活し、病棟を歩いている。
乳房へのファンタジーと隠喩
手術日とその翌日は、担当医や看護師が日に3度ほど部屋を訪れ、切除後の傷を確認していく。テープで貼られた傷の下には、たしかに内出血や化膿もない。あごを引いて自分の右胸を見ると、テープの下に、10歳の少女のときのやわらかな胸が無防備に呼吸をしていた。
赤ちゃんの息子に母乳を与えていた乳房はそこにはなかった。行ってしまった。ただ、乳房のあった場所に記憶が漂っている。私はその気配を感じとった。乳と汗の臭のする赤ん坊の柔らかな髪の毛。赤ん坊が懸命に吸っていた乳房。私はそのとき哺乳類で、子どもの食べ物だった。
手術が終わって、手術室から病室に運ばれ、声をかけられて意識の底の方からようやく起き上がった。まだ麻酔が十分に覚めておらず、視覚にはベッドサイドに立つ医師のえんじ色の着衣と、医師が手にしたタッパーのようなトレイが見えた。私は夢うつつのなか、そのタッパーを覗き込む。そこにあったのは、黄色い脂肪の塊だった。虚ろな頭で、私はその中央に載せられたものを癌細胞だと思い、「2センチくらいですね、案外大きいんですね」などと口走った記憶がある。
それが乳頭だとわかったのは、連れ合いがあとで見せてくれた写真を確認したときである。脂肪の塊。モーパッサンの小説のタイトルだ。様々なファンタジーと隠喩、エロスと卑猥を男たちにもたらす女の乳房は、こんな脂肪の塊に過ぎないんだぜ。私は少し笑った。
部分切除にするか、全切除にするか、全切除ののちに再建をするのか、この2か月検討し、最終的には自己決定をしなくてはならなかった乳癌手術の方法と再建の問題。
10才のときにぽっつりと腫れた乳腺の痛みに不安にさせられた乳房。第2次性徴の頃から排卵期になると痛み、月経を知らせた乳房。そのころから、幾度となく、一方的な性と欲望の対象にされた乳房。パートナーとのセックス。出産後、本来の用途として乳腺が張り、赤ん坊のいのちを育んだ乳房。
乳房だけでなく、私たちのすべてが、性別も関係なく、このように柔らかな獣のような肉に過ぎない。外科の医師は毎日、こんなふうに人が柔らかな獣の肉である姿を見せつけられるのか。
獣の肉のいくばくかを切り落として、私は切り落とした肉の分だけ、魂に近づいていくことができればいいのに、と思った。女の体で生きることは、痛いからね。
痛みと私の内側にある海
病室を訪れる看護師が幾度となく、「痛みは10のうちいくつくらい?」と訊いてくれる。手術の日の午後、痛みは2、昨日と今日は1と答えた。肉の痛みのことを訊いているのだ。明け方、私は目が覚めて、痛みを感じた。それは肉の痛みではなかった。スピリチュアル・ペイン。名付ければそうなるのだけれど、まだその言葉の輪郭の内側にある痛みは、言葉にならない。
私の無意識の海の表面にはさざ波が立ち、凪いでいるのだが、海は重く沈んでいる。私の中に在るのは、疲れだった。女性のこの体で生きて、働き、育て、闘ってきたことの長い月日の疲弊。沈み込むような疲れを、この身で支えてきて、しなった身体。樹木の枝のような手と腕。半世紀を生きた体だった。
術後私につけられたモニターは、私の少しの動きや動揺に反応して、すぐに音を立てた。敏感すぎるモニターの悲鳴。私たちは獣のような生き物だから、苦しめば息が荒くなり、心拍が早くなる。いつもはモニターをつけていないから、黙って何十年もそれに耐えてきたのだ。心身に負担をかけるということが、どのようなことなのか少しわかったような気がする。モニターをつけていないのに、自分の心身にはっきりと感じられるストレスによる動悸や、外傷体験、二次受傷体験は、どれだけ私の心身の負担になっていたのだろう。
I am a little runaway
ともあれ、私は今回は生き延びさせていただいた。乳癌が発覚してからの2か月。 癌が成長するスピードと、私が逃げ切るスピードをイメージしながら、最短でディシジョン・メイキングをした。もっとも、非浸潤性乳管癌で「顔つきのよい癌」と言われていたから、そんなに早く大きくなったりしない。医師はそう言って、私を一度も不安にさせることはなかった。
ディシジョン・メイキングと書いて、選択や意思決定というのは、もっとやわらかなもので、直観や無意識、見えないものに導かれた必然であるような気がするのである。これまでの人生で幾たびも、そうした「奇跡」は起きて、命の瀬戸際から掬い取られたり、尊厳を踏みにじられるところから、私自身を逃亡させることがあった。
今回、私は20年前、叔母を55歳で死に至らしめた乳癌に、同年代でり患した。乳腺が腫れて慌てて病院に行った7月末のあの日から、叔母はきっとずっと私の傍にいる。もうすぐ54歳になろうとしている私は、叔母の体を喰い尽くしてしまった乳癌と、同じものが私に萌芽したとしたらと、静かに闘争モードだった。今回は、生き延びるというより、逃亡者の感覚に近い。
私は毎年乳癌健診は今頃、秋に行っていたから、通常のルーティンなら年末に乳癌が発覚するはずだっただろう。手術はそれ以降、今より半年は遅れただろうと思われる。
©写真 高橋保世
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