信仰はないが実践している
私の場合、年間の宗教的行事として、神社でのお参り、お彼岸でのお寺詣、墓参り、お盆参り、秋の彼岸、クリスマスとあり、近親者が亡くなったら仏式で葬式をします。
ですので特定の神様、あるいは超越者を「信仰」しているわけではないけども宗教行事を「実践」しているということになります。
ですので宗教を聞かれたら自分は無神論者と名乗ることはありません。死んだ時のことを考えると仏教徒ですと答える感じです。
私がこのような実践をみずから選んだわけでなく過去に合わせたわけですし、皆も同じような感じでしょうが、仏教が実践面で重んじられているのは明治の廃仏毀釈や神仏習合を考えてみれば不思議です。
明治時代に廃仏毀釈や神仏習合をした時とかになぜ神道に統合し葬式も神式にならなかったのか?結婚式は神式がある。なぜ神道はその時期に葬式まで面倒見るようにならなかったのか?穢れだから?だとしたら仏教伝来以前の神道の葬式は残されているのか?(これは後でネット検索)
教育システムも寺小屋という言葉があるが、これがなぜ神社小屋にならなかったのか?
100年くらい前のことではあるのによくわからないことである。
このようなことを考えたのは、ずっと以前、ロマネスク美術を紹介するためのページを1997年ごろ、比較的早くから作っていたが、ある程度作ったところで信仰の問題に直面した。と言っても大袈裟なことではなく、他宗教のことを解説したり、歴史を書いたり、教会に入っていって写真をとってて、写真はインターネットに乗っけて怪しい解説をつけていて、先方にとっては歓迎できることではないのではないか、と。
今でもそれは思うが、その時とは気持ちも変わった。そんなこと言ったら他民族の宗教を調べる時にその宗教に改宗する必要があるのか、例えばイスラム教やユダヤ教。それらの美術だとかに興味を持って語っていても、イスラムですか?とはまず聞かれない。多少とも人口のいるキリスト教だから、キリスト教徒ですかと聞かれるのだろう。そう考えて、宗教の違いは気にするのをやめにして再出発をした。
フーコーの「性の歴史4巻 肉の告白」が出てアベラールとエロイーズの読み解きが可能になった。全く違う視線でアベラールとエロイーズを読むことができるようになったのでフーコーの著作の威力は驚くべきものである。と同時にこのレベルでの日本の思想史の読みほぐしたものが欲しいなと思った。平安時代の「大学」で学ばれていたものはなんだろうか?神道に仏教がかぶさってきたとして儒教はどう考えたらいいんだろうか?
儒教の親や兄弟を敬え、というのは尊敬できない親兄弟さらには先生だったらどうなのだろうか?その場合は敬う必要ないのだろうか?もちろん現実に尊敬できない親兄弟先生からはうまく離れるしかない。
尊敬できない方々でも敬えということであれば、それはすべてを捨てるとしたことと同じ専制的な考え方と同じではないのか。教育勅語もそうか?あれは年取った人に優位な考え方であるので若い人には嫌がられるだけではないだろうか?だから躾という言葉が使われるのではないのか?
キリスト教ではすべてを捨てることは永遠の生命を得て救済されることである。では儒教は何を与えてくれるのだろうか?
フーコーの路線で考えていくと今は流行らない左寄り思想とならざるを得ないので、私にはなおさら都合が良いかもしれない。我々は明治時代の強烈な天皇思想の支配下にいるのか。それももっとバラバラにできるのか。
自分にはどのような思想が紛れ込んでいるのだろうか?宗教的実践を思いつつ、つらつら出口のない問いを今日も考える。