「従順さのどこがいけないのか」将基面貴巳氏はサルトルで話を締める
ふと目に入ったタイトルが刺激的であったので内容を目次で確認すると下記のようであった。ちなみに氏は「しょうぎめんたかし」と読む。慶應技術大学法学部政治経済学部卒、現職ニージーランド・オタゴ大学教授。
内容についてさっと確認する。氏は「ヨーロッパ政治思想の誕生」でも私の推しのミシェル・フーコーは引用してくれてないので、この本も「パレーシア」についてはまるで言及ないだろうな、と思ったがその通りであった。歴史学者からしてみればフーコーは雑すぎる立場なのだろうと思う。なのでフレンチセオリーもまるでないかと思えば、痺れたことにこの本の終わりにサルトルを引用。
「我々とは、我々の選択である」
ただし氏はサルトルのものと伝えられる言葉、として提示しています。
私のこのページではフーコーの講義録に出てくるパレーシアや性の歴史に出てくる告白による人々の従属化を度々取り上げています、それはまだ達してませんがアドルノのテーマでナチス・ドイツの組織的、法律的な正義、優生学という科学(今ではなんちゃってとしても)を保ちながらユダヤ人を殲滅しようとした、それは今ではユダヤ人がパレスチナ人に同じことをしているような、そういう点に興味があります。
ですので氏のテーマはとても期待が持てました。一読したところそのメッセージ性は優れているのですが、ではそのような反対運動はどのように展開しているのかがもっと描かれていたらよかった。日本についてももう少し展開してくれてもよかったと思いました。海外で販売するコンテンツとしてはいいと思いますが海外事例が多いです。
反対運動として、ナチスドイツ下の白バラ抵抗運動pp126 「良きひとのソナタ」のヴィースラーpp176などがあるのですが、白バラ運動は継承されるようですが残念な結果となってしまっています。
こういう事例で日本の大戦下でも事例が集められないでしょうか。集めても右翼の餌食になるでしょうか。
氏は日本の子供を送り出すときに「先生のいうことをよく聞きなさい」、アメリカでは「よく質問しなさい」という、と日本人が服従するのはこんなところに「一因」と言われ全くその通りだと思います。ではそれはなぜそうなってしまうのか?私も取り上げましたが儒教だろうか?
72ページまで進むと「論語」の諌言(かんげん)の憲問編が説明されています。
私も
で類似した面を取り上げています。
論語の抑圧的に見える面は私は誰かに利用されたのか、と思って江戸時代の儒教について調べ始めましたが、氏が書いてくれてました。
先ほどの諌言をボスにしても聞き入れなかったら去れ、と論語にはあるといいます。出典は明記されていません。
これが日本に入り山本常朝による「葉隠」1700年ごろ、では「主君の絶対忠誠」に転化されとのこと。「日本ではリーダー個人への忠誠義務が強調された結果、諫言はリーダーの過ちを糊塗する行為」となっていることを認識。私もこの前後をもう少し調べていきたい。
第4章に「君が代」が出てきて、君が代の君は天皇を意味して、2番目は天皇のために死ぬことを意味していることを解説し、「日本の国家には、私たち日本人が希求すべき政治的理想を見出すことはできません」p151。全く私も同じ思いです。
他必殺仕置人、ビートたけしの「赤信号」、奧村チヨの「恋の奴隷」が引用されます。フェミニズムについても一節。出典箇所失念しましたが、氏の出身の福沢諭吉の「独立心をもて」も当然出てきます。でもそれ以上展開してないので、展開が難しいのでしょう。
p38にカントの「啓蒙とは何か」を引用して「知る勇気を持て」、教会権威に従うのではなく、と引用しています。でもこれはフーコーが解説しているようにカントはフランス革命をかたや見て、カントは啓蒙の担い手としてプロイセン大王に「演じさせるに際して、カントは明らかに気詰まりを感じていますが(諸学部の争い)・・・啓蒙の過程そのものがフランス革命へと日延べされることになる、ということを部分的に説明」フーコー講義集成12巻1983年1月5日の講義pp48、というなかなか微妙な問題を引き起こします。
ローマ・カトリックへの挑戦状を結果的に叩きつけることになったルター(従順さのどこがいけないか p122)の抵抗と立ち回りを調べても面白いのかもしれませんね。
面白い本でしたので一気に目を通してしまいました。誤読や読み飛ばし、趣旨の履き違えあるかもしれません。ご容赦ください。同様な概念に興味を持つ方におすすめです。
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