フーコーによるマルクス・アウレリウスのパレーシア(率直な語り)

以前、神谷美恵子先生がマルクス・アウレリウスもフーコーも翻訳していたことを書いたが、フーコーの性の歴史3巻はストア派についての読み解き、特にギリシアーローマ帝政期ーキリスト教時代の中での繋ぎを意識した記述であるので面白い。
 性の歴史3巻の中でマルクス・アウレリウスは沢山紹介されているが、今日読んでいたのは第3章「自己と他者」の2「政治の働き」。以前から紹介しているパレーシアに関連する記述があったのでギリシア原文も提示してみよう。

 こんな風に紹介されている(インデント、番号付、太字などは私が勝手に変えた)

政治権力の体験は一面では、当人の地位身分とは別の職務の形式をおび、他方、個人の徳の注意深い実践を必要とするのであり、そうした権力体験の最も明瞭な表現が見出されるのは、マルクス・アウレリウスにおいてである。
 彼はアントニヌス帝について人物素描を二つ行なっているが、そのうち短いほうの段落で、自分が教訓を三つ受取ったことに注意を喚起している。すなわち、
(1)自分が行なう政治上の役割と自分自身を同一視すべからずという教訓「心底まで《皇帝》になってしまい、それに染まりきらぬよう心せよ」)。
(2)最も一般的な形式における徳を行なうべしとの教訓(「単純素朴で汚れなく、正直にして謹厳かつ自然で、正義を友とし、神を敬い、心やさしく、情愛にみち、義務の遂行にあたって断固たる」身を保つべし)。
(3)最後に、哲学の教えを心にとどめ、神々を畏敬し、人々を助け、どんなに人生が短いかを知るべしとの教訓。
(自省録VIの30 岩波文庫p90 1956-1996年版)

性の歴史3巻 p121

 フーコーは具体的な記述を抽象化するのが上手い。2つ目の「単純素朴で汚れなく、正直にして謹厳かつ自然で、〜云々」というのを「一般的な形式における徳を行なうべし」と要約している。考えたら伝統として当たり前ではあるが原文にはないので注意。
 続いて次の記述があるのだが「冒頭」とあるので冒頭も見てみたが、上記引用の自省録6章の30の後半の気がする。

 しかもマルクス・アウレリウスは、『自省録』の冒頭で、自分自身にとって人生指針の価値をもつアントニヌス帝のもう一つの人物素描を、いっそう詳しく行なっているが、そこでは彼はこの同じ原則が、いかに自分の権力行使方法に範をたれていたかを明らかにする。
 すなわちアントニヌス帝は、うつろな華々しさ、虚栄心の満足、逆上と暴力を避け、訴訟や疑惑になりかねない事柄からいっさい顔をそむけ、追従者を遠ざけて、思慮深く率直な勧告をしてくれる者にだけ近づくことによって、いかに自分が「皇帝然たる」存在様式を拒絶しているかを明らかにしていた。
 節制の実行によって(食事や衣服や就寝や若者たちについてであれ)、また、生活を楽にする品々をいつも適度に使用することによって、動揺がなく心にむらがないことによって、移り気でもなく激情にかられない友情関係をつちかうことによって、彼は「自足して明朗さを失わない術」に慣れるよう自分を鍛えていた。

同 p122

「思慮深く率直な勧告」はパレーシアを彷彿とするが神谷美恵子先生訳では「彼の意見に公然と反対する者にたいしては忍耐し、もっと良いことを教えてくれるものがあれば喜んだ」となっている。パレーシアという言葉が使われているのか調べる価値がある。
すると該当箇所のギリシア語は
καὶ τὸ ἀνέχεσθαι ‹τῶν› ἀντιβαινόντων παῤῥησιαστικῶς ταῖς γνώμαις αὐτοῦ καὶ χαίρειν εἴ τίς ‹τι› δεικνύοι κρεῖττον˙
「そして、自分の意見に率直に反対する者たちを寛容に受け入れ、誰かがより優れたものを示したなら、それを喜んで受け入れること。」(ChatGPT)
となっていて、太字部分παῤῥησιαστικῶςはChatGPTによるとparrēsiastikōsとラテン文字表記できるようである。
 もう一つフーコーのフランス語原文の確認をしたいところであるが持ってないのでできない。どなたかいかがでしょうか。英語版は持ってるんだけどね。。。
 次は皇帝の実務であるが、なんだか今日の管理部門のサラリーマン入門みたいである

 そして以上の諸条件においてこそ、皇帝としての責任の行使は厳粛な職務の実践として現われることができるのであり、この実践には多くの仕事が要求される。
 すなわち、用務を精密に検討すること、未決の書類をけっして放置しないこと、むだな出費を行なわないこと、あらかじめ自分の計画を正しく見込み、それを固くまもること。自己による自己の琢磨全体がこれらの責務にとって必要なのであり、その責務は、これ見よがしに自分自身が権力の種々の目印と同一視されないだけにいっそうよく成しとげられるだろう。

同 p122

今日の管理部門の事業遂行のお手本ではなかろうか:「用務を精密に検討すること、未決の書類をけっして放置しないこと、むだな出費を行なわないこと、あらかじめ自分の計画を正しく見込み、それを固くまもる」そして、お役所的においがする。この直接的な該当箇所は見当たらない。
下記の「彼は何事も十分に見極め、明確に理解するまでは何も見過ごさなかったように」について、マルクス・アウレリウスが率いたのはローマ帝国の官僚だった訳だからフーコーが一般論として膨らまして付け加えただけかもしれない。

参考:
ギリシア語原文 6章30
Ὅρα μὴ ἀποκαισαρωθῇς, μὴ βαφῇς˙ γίνεται γάρ. τήρησον οὖν σεαυτὸν ἁπλοῦν, ἀγαθόν, ἀκέραιον, σεμνόν, ἄκομψον, τοῦ δικαίου φίλον, θεοσεβῆ, εὐμενῆ, φιλόστοργον, ἐῤῥωμένον πρὸς τὰ πρέποντα ἔργα. ἀγώνισαι, ἵνα τοιοῦτος συμμείνῃς, οἷόν σε ἠθέλησε ποιῆσαι φιλοσοφία. αἰδοῦ θεούς, σῷζε ἀνθρώπους. βραχὺς ὁ βίος˙ εἷς καρπὸς τῆς ἐπιγείου ζωῆς, διάθεσις ὁσία καὶ πράξεις κοινωνικαί. πάντα ὡς Ἀντωνίνου μαθητής˙ τὸ ὑπὲρ τῶν κατὰ λόγον πρασσομένων εὔτονον ἐκείνου καὶ τὸ ὁμαλὲς πανταχοῦ καὶ τὸ ὅσιον καὶ τὸ εὔδιον τοῦ προσώπου καὶ τὸ μειλίχιον καὶ τὸ ἀκενόδοξον καὶ τὸ περὶ τὴν κατάληψιν τῶν πραγμάτων φιλότιμον˙ καὶ ὡς ἐκεῖνος οὐκ ἄν τι ὅλως παρῆκε, μὴ πρότερον εὖ μάλα κατιδὼν καὶ σαφῶς νοήσας˙ καὶ ὡς ἔφερεν ἐκεῖνος τοὺς ἀδίκως αὐτῷ μεμφομένους μὴ ἀντιμεμφόμενος˙ καὶ ὡς ἐπ οὐδὲν ἔσπευδεν˙ καὶ ὡς διαβολὰς οὐκ ἐδέχετο˙ καὶ ὡς ἀκριβὴς ἦν ἐξεταστὴς ἠθῶν καὶ πράξεων καὶ οὐκ ὀνειδιστής, οὐ ψοφοδεής, οὐχ ὑπόπτης, οὐ σοφιστής˙ καὶ ὡς ὀλίγοις ἀρκούμενος, οἷον οἰκήσει, στρωμνῇ, ἐσθῆτι, τροφῇ, ὑπηρεσίᾳ˙ καὶ ὡς φιλόπονος καὶ μακρόθυμος˙ καὶ οἷος μέν‹ειν› ἐν τῷ ‹αὐτῷ› μέχρι ἑσπέρας διὰ τὴν λιτὴν δίαιταν μηδὲ τοῦ ἀποκρίνειν τὰ περιττώματα παρὰ τὴν συνήθη ὥραν χρῄζων˙ καὶ τὸ βέβαιον καὶ ὅμοιον ἐν ταῖς φιλίαις αὐτοῦ˙ καὶ τὸ ἀνέχεσθαι ‹τῶν› ἀντιβαινόντων παῤῥησιαστικῶς ταῖς γνώμαις αὐτοῦ καὶ χαίρειν εἴ τίς ‹τι› δεικνύοι κρεῖττον˙ καὶ ὡς θεοσεβὴς χωρὶς δεισιδαιμονίας˙ ἵν οὕτως εὐσυνειδήτῳ σοι ἐπιστῇ ἡ τελευταία ὥρα ὡς ἐκείνῳ.
https://el.wikisource.org/wiki/Τα_εις_εαυτόν/6
ChatGPT訳
「カエサル化してしまわないように、染まってしまわないように気をつけよ。それは起こりうることだ。だから、自分自身をシンプルで、善良で、純粋で、慎ましく、不器用で、正義を愛し、敬神し、慈悲深く、愛情に満ちた者でい続けるようにしなさい。ふさわしい行いに対して力強くあれ。哲学があなたをそうありたいと願ったように、努力してその姿を保ちなさい。神を敬い、人々を守れ。人生は短い。地上の人生の果実は、神聖な態度と共同体への行動である。すべてをアントニヌスの弟子として行いなさい。彼の理にかなった行為に対する熱心さ、その安定した姿勢、神聖さ、顔つきの穏やかさ、優しさ、虚栄心のなさ、物事の把握に対する誠実さを模範としなさい。そして、彼は何事も十分に見極め、明確に理解するまでは何も見過ごさなかったように、彼のように不当な非難に対しては報復せず、急ぐことなく、誹謗中傷を受け付けず、人の性格や行動を詳しく調べるのに熱心であったが、非難せず、臆病でもなく、疑い深くもなく、詭弁家でもなかった。そして、少ないもので満足し、住居や寝具、衣服、食事、奉仕にも少しで済ませた。また、勤勉で忍耐強く、簡素な生活を送っていたので、排泄物を通常の時間に排出する必要さえなかった。友人関係においても安定していて、彼の意見に対して異議を唱える者たちに寛容であり、誰かがより優れたことを示すと喜んで受け入れていた。彼は迷信なしに敬虔であった。このようにして、彼の最後の時がやってきたとき、彼にとっては良心的で安らかなものであった。」

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