「論語」と「自己への配慮」6 自己の形成について
いよいよ本題かもしれません。自己への配慮の概念を論語も共有していたと仮説をおいて、論語ではどのような自己を形成するのか、例の如くフーコーの分析に対置して行きましょう。
まずはフーコーによるギリシア哲学からのセネカ、マルクス・アウレリウスについて
人生の中で時間を無駄にしてはいけない、自分を成長させるために労力を惜しんではならない、ということが強調されています。
次に古代ギリシア・ローマの要素から論語の世界に目を向けよう。時間については以前取り上げました。有名な「吾十有五而志於學;三十而立〜」ですね。自己の形成についてテキストを探しましょう。
公冶長第五
二一(一一三)
先師が天下を周遊して陳の国に居られたときに、いわれた。――
「帰るとしよう、帰るとしよう。帰って郷党の若い同志を教えるとしよう。彼等の志は遠大だが、まだ実践上の磨きが足りない。知識学問においては百花爛漫の妍を競っているが、まだ自己形成のための真の道を知らない。それはちょうど、見事な布は織ったが、寸法をはかってそれを裁断し、衣服に仕立てることが出来ないようなものだ。これをすてては置けない。しかも、彼等を教えることは、こうして諸侯を説いて無用な旅をつづけるより、どれだけ有意義なことだろう。」
知識学問は布であり、服にするには布を切ったり仕立てて実践を磨けと。自己形成についてのこのような比喩は中国では一般的か?
西洋古代哲学では自己の制御が重要である。己に勝つことである。
顔淵第十二
一(二七九)
顔渕が仁の意義をたずねた。先師はこたえられた。――
「己に克ち、私利私欲から解放されて、調和の大法則である礼に帰るのが仁である。上に立つ者が一たび意を決してこの道に徹底すれば、天下の人心もおのずから仁に帰向するであろう。仁の実現は先ず自らの力によるべきで、他にまつべきではない。」
顔渕がさらにたずねた。――
「実践の細目について、お示しをお願いいたしたいと存じます。」
先師がこたえられた。――
「非礼なことに眼をひかれないがいい。非礼なことに耳を傾けないがいい。非礼なことを口にしないがいい。非礼なことを行わぬがいい。」
顔渕がいった。――
「まことにいたらぬ者でございますが、お示しのことを一生の守りにいたしたいと存じます。」
では礼とは何か?
一二(一二)
有(ゆう)先生がいわれた。――
「礼は、元来、人間の共同生活に節度を与えるもので、本質的には厳しい性質のものである。しかし、そのはたらきの貴さは、結局のところ、のびのびとした自然的な調和を実現するところにある。古聖の道も、やはりそうした調和を実現したればこそ美しかったのだ。だが、事の大小を問わず、何もかも調和一点張りで行こうとすると、うまく行かないことがある。調和は大切であり、それを忘れてはならないが、礼を以てそれに節度を加えないと、生活にしまりがなくなるのである。」
礼を知らないとどのようなことになるのか?
堯曰第二十
三(四九九)
先師がいわれた。――
「天命を知らないでは君子たる資格がない。礼を知らないでは世に立つことが出来ない。言葉を知らないでは人を知ることが出来ない。」
天命、礼、言葉がセットである。礼に近い概念でよく出てくる仁はどうだろうか?
顔淵第十二
二四(三〇二)
曾先生がいわれた。――
「君子は、教養を中心にして友人と相会し、友情によって仁をたすけあうものである。」
仁と勇気は下記に見るようにセットである:
憲問第十四
五(三三七)
先師がいわれた。――
「有徳の人は必ずよいことをいう。しかしよいことをいう人、必ずしも有徳の人ではない。仁者には必ず勇気がある。しかし勇者必ずしも仁者ではない。」
このことはフーコー講義の「真理の勇気」というタイトルを強く想起させる。仁についてもう少し調べる。
述而第七
六(一五三)
先師がいわれた。――
「常に志を人倫の道に向けていたい。体得した徳を堅確に守りつづけたい。行うところを仁に合致せしめたい。そして楽しみを六芸に求めたい。」
仁は人倫や徳に結びついていることがわかる。
次の話題にうつります。興味深いことに、人を導くには沈黙の必要性はピタゴラス教団そして中世の修道院(例としてアベラール)でも引き継がれていた。論語にも下記のように出てくる:
述而第七
二(一四九)
先師がいわれた。――
「沈默のうちに心に銘記する、あくことなく学ぶ、そして倦むことなく人を導く。それだけは私に出来る。そして私に出来るのは、ただそれだけだ。」
生徒側でなく先生側である、心に銘記し学ぶというのは文字がまだ十分な表現力を持たなかったころであるかもしれない。古代ギリシアでも非文字のソクラテスから文字にしていったプラトンの考え方の相剋は興味深い。孔子でも同じ状況であるか。
自己の形成の結果どのようになるのかフーコーでは下記のように書かれている:
これに対応するのは再掲になるが論語冒頭の
学而第一
一(一)
先師がいわれた。――
「聖賢の道を学び、あらゆる機会に思索体験をつんで、それを自分の血肉とする。何と生き甲斐のある生活だろう。こうして道に精進しているうちには、求道の同志が自分のことを伝えきいて、はるばると訪ねて来てくれることもあるだろうが、そうなつたら、何と人生は楽しいことだろう。」
となるのではなかろうか。このように読んでくると論語の冒頭の明るさは特筆すべきものに思える。
今回はここまで。
論語の引用は下記青空文庫のものを利用させていただいております。
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