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中世キリスト教修道院における修道の核心その9 沈黙2/3(戒律・会則・司牧論) ChatGPTでアベラールとエロイーズ

前回のアベラールの沈黙について、戒律から背景を探る。

戒律にあらわれる沈黙

戒律について概論はこちらの後半にまとめてあります。

沈黙についてはディダケー、ポンティコスには見出せなかった。もしくは気が付かなかった。

アウグスティヌスの修道院規則 

序「⑨無益な会話をしてはならない。」とあるが続けて「早朝からそれぞれの仕事のために座に着いているべきである。 三時課の祈りの後も、同様に、それぞれの仕事に従事するべきである。それぞれにとって霊魂に有益である場合を除いては、立ったまま会話をしてはならない。仕事のために座に着いている者は、必要上やむをえず話をしなければならないときを除いて、沈黙を保つべきである。」とある。このフレーズに類似したフレーズとしてアベラールはアウグスティヌスの「再論」から引用している。
 仕事に専念するために御喋りはだめということである。ここで「霊魂に有益」というフレーズが後代のベネディクトゥスでは具体的に「卑俗」「無益」であるとかの概念が付け加えられている。

ベネディクトゥスでは第6章

「沈黙の精神について」という章があり、「私は言う。〈私の道を監視し、舌によって罪を犯さないようにしよう。 私の口に私は番人を置いた〉と。私は語らず、卑しめられたが、善いことにすら口をつぐんだ」〔詩三九:二~三〕。このように沈黙に対する敬意から、ときに、善い言葉でさえも控えなければならないなら、ましてや罪に対する罰を考えるとき、悪い言葉は避けなければならないことを預言者は示している。」と根拠を示し、次に「沈黙の重要性に鑑み、人と話す許可は円熟した弟子にも、たとえそれがいかに善く、聖く、有益な会話であっても稀にしか与えてはならない。(「多く話す者は罪を逃れられない」 〔箴10:19〕とあるし、 また「死も生も、舌いかんによる」〔箴18:21〕とある。)
⑥ 語り、教えることは師に属し、弟子は語らず、聞くのがふさわしい。」と服従の意識も込められている。このような状況なので、おしゃべり・雑談は厳禁である。「⑦ 卑俗な言動、無益なおしゃべり、笑いを誘う言葉はいつ、いかなるところでも禁じ、私たちは弟子がこのような話のために口を開くことを許可しないものとする。」終課後には一切口を聞いてはいけないと42章に出ている。

ラテン語翻刻版をチェックしてみよう。
https://la.wikisource.org/wiki/Regula_sancti_Benedicti

Caput 6:
De taciturnitate
Faciamus quod ait Propheta: Dixi: custodiam vias meas, ut non delinquam in lingua mea. Posui ori meo custodiam, obmutui et humiliatus sum et silui a bonis. Hic ostendit Propheta, si a bonis eloquiis interdum propter taciturnitatem debet tacere, quanto magis a malis verbis propter poenam peccati debet cessari. Ergo quamvis de bonis et sanctis et ædificationum eloquiis perfectis discipulis propter taciturnitatis gravitatem rara loquendi concedatur licentia, quia scriptum est:In multiloquio non effugies peccatum, et alibi: Mors et vita in manibus linguæ. Nam loqui et docere magistrum condecet, tacere et audire discipulum convenit. Et ideo, si qua requirenda sunt a priore, cum omni humilitate et subiectione reverentiæ requirantur. Scurrilitates vero vel verba otiosa et risum moventia æterna clusura in omnibus locis damnamus et ad talia eloquia aperire os non permittimus.
第6章 静寂について
「預言者が言うようにしましょう:私は言った、私の道を守り、私の舌で罪を犯さないように。私は口に番をつけ、黙り、謙遜し、善から黙りました。ここで預言者は示しています。善い言葉から時折黙っているべきであるなら、罪の罰から悪い言葉を控えることはなおさらです。したがって、善くて聖なる言葉や建設的な言葉について、完璧な弟子には黙っていることの厳格さのために、時折話す許可が与えられます。なぜなら、書かれているように、「多言は罪を逃れさせません」(箴言10:19)、また別の場所では「死と命は舌の中にある」(伝道者7:26)からです。なぜなら、教えることと話すことは教師にふさわしく黙り聞くことは弟子に適しています。したがって、以前から求められるものがある場合、それはすべて謙虚で敬意をもって求められるべきです。しかし、卑猥な言葉や無駄な言葉、笑いを引き起こす言葉に対しては、永遠の閉ざされた禁止を全ての場所で宣言し、そのような言葉で口を開かせないようにします。」

https://la.wikisource.org/wiki/Regula_sancti_Benedicti

Caput 42:
Ut post conpletorium nemo loquatur
Omni tempore silentium debent studere monachi, maxime tamen nocturnis horis. Et ideo omni tempore, sive ieiunii sive prandii: si tempus fuerit prandii, mox surrexerint a cena, sedeant omnes in unum, et legat unus Collationes vel Vitas Patrum aut certe aliud quod ædificet audientes, non autem Eptaticum aut Regum, quia infirmis intellectibus non erit utile illa hora hanc Scripturam audire, aliis vero horis legantur. Si autem ieiunii dies fuerit, dicta Vespera, parvo intervallo mox accedant ad lectionem Collationum, ut diximus. Et lectis quattuor aut quinque foliis vel quantum hora permittit, omnibus in unum occurentibus per hanc moram lectionis, si qui forte in adsignato sibi commisso fuit occupatus, omnes ergo in unum positi conpleant, et exeuntes a Conpletoriis nulla sit licentia denuo cuiquam loqui aliquid. Quod si inventus fuerit quisquam prævaricare hanc taciturnitatis regulam, gravi vindictæ subiaceat, excepto si necessitas hospitum supervenerit aut forte abbas alicui aliquid iusserit. Quod tamen et ipsud cum summa gravitate et moderatione honestissima fiat.

第42章夜の詠唱の後にだれも話さないように
修道士たちはいつでも沈黙を守るべきであり、特に夜の時間には最もそうすべきです。そして、だからこそ、断食日であろうと食事の日であろうと、すぐに夕食から起き上がり、みんな一緒に座り、一人が談話または父たちの生涯、あるいは確かに聴衆を建てる他のものを読むべきです。しかしエウパティウムや列王記は、知識が弱い者たちにはその時間にその聖書を聞くのは有益ではないので、他の時間に読むべきです。しかし、断食の日であれば、夕べの祈りが終わったら、すぐに談話の読書に取りかかるべきです。そして4または5枚、または時間が許すだけの量を読み終えたら、すべての者が一緒にいる間に、もし誰かが役割分担された仕事に忙しい場合を除き、全員が共に祈りの結びつけを果たし、コンプリン(修道院での夜の最後の祈り)を終えたら、再び誰もが何かを話す権限はない。もし誰かがこの沈黙の規則に違反するのを見つければ、重い制裁に処されなければならない。ただし、宿泊客の必要性が生じた場合や、修道院長が何かを命じた場合を除きます。ただし、それもまた非常に真摯かつ適切な範囲で行われるべきです。"

Caput 48:
De opera manuum cotidiana
Otiositas inimica est animæ, et ideo certis temporibus occupari debent fratres in labore manuum, certis iterum horis in lectione divina. Ideoque hac dispositione credimus utraque tempore ordinari: id est: ut a Pascha usque kalendas octobres a mane exeuntes a prima usque hora pene quarta laborent quod necessarium fuerit. Ab hora autem quarta usque hora qua Sextam agent, lectioni vacent. Post Sextam autem surgentes a mensa pausent in lecta sua cum omni silentio, aut forte qui voluerit legere sibi sic legat, ut alium non inquietet. Et agatur Nonam temperius mediante octava hora, et iterum quod faciendum est operentur usque ad Vesperam. Si autem necessitas locis aut paupertas exegerit, ut ad fruges recollegendas per se occupentur, non contristentur. Quia tunc vere monachi sunt, si labore manuum suarum vivunt, sicut et Patres nostri et Apostoli. Omnia tamen mensurate fiant propter pusillanimes.(略)

日々の手仕事について
怠惰は魂に敵対的であり、したがって特定の時間に兄弟たちは手仕事に従事し、他の特定の時間に聖書の読書に励むべきです。そしてこの計画によって、両方の時間が整えられると信じます。すなわち、復活祭から10月の始めまで、朝から昼までの時間、ほぼ第一時刻から第四時刻まで、必要な作業に取り組むべきです。しかし、第四時から六時までの時間は聖書の読書に費やすべきです。そして、六時以降に食事を終えて起き上がり、全てが静かな中で自分の読書に専念するか、もしくは誰かを邪魔しないように、欲しい人が静かに読むことができるでしょう。そして、九時が来ると、八時の中ごろまでに昼食が終わり、再びやるべきことに取り組み、夕方の祈りまで働くべきです。しかし、もし状況や貧困が収穫のために手仕事に従事することを要求するなら、それに対しても悲嘆すべきではありません。なぜなら、その時こそが本当の修道士であり、自分の手仕事で生計を立てるからです。これは私たちの父や使徒たちも同じようにしてきたからです。ただし、すべては心の小さい者たちのために適切に行われるべきです。"

Caput 52:
De oratorio monasterii
Oratorium hoc sit quod dicitur, nec ibi quicquam aliud geratur aut condatur. Expleto opere Dei, omnes cum summo silentio exeant, et habeatur reverentia Deo, ut frater qui forte sibi peculiariter vult orare, non inpediatur alterius inprobitate. Sed et si aliter vult sibi forte secretius orare, simpliciter intret et oret, non in clamosa voce, sed in lacrimis et intentione cordis. Ergo qui simile opus non facit, non permittatur explicito opere Dei remorari in oratorio, sicut dictum est, ne alius impedimentum patiatur.

修道院の礼拝堂について
この礼拝堂はそれであるべきであり、他の何もかもそこで行われたり置かれたりしてはならない。神聖な仕事が終わったら、全員が最大限の静寂を保ちながら出ていき、神に対して敬意をもつべきです。そうして、もし個々の兄弟が自分に特有の方法で祈りたいと思うなら、他の者によってその悪行に妨げられないようにするべきです。また、もし誰かがもっと静かに密かに祈りたいと思うなら、単純に中に入り、大声でではなく、涙と心の集中で祈るべきです。したがって、同様のことをしない者は、神聖な仕事が終わった後に礼拝堂で引き留めてはいけません。前述のように、他の人が妨害を受けることがないように。"


司牧論

 これまで戒律として司牧論を入れてこなかったが、ここでは該当箇所をみつけたので追加する。日本語の全訳がなかったので(タイトルだけはあるらしい)内容を確認できなかったため。しかし、検索とChatGPTで最近検討がついてきたので追加することに。
 ベネディクト会則の成立は529年頃、『会則』を完成したのは530年頃と言われているが忘れ去られていたものらしい。一方、司牧論はその約60年後590年ごろ大聖グレゴリオによって書かれたものである。
 司牧論は修道院長のノウハウを司祭に伝えたもので、このノウハウの伝授により教会の一般民衆をより一層、教化していこうとしたことが窺われる。あたかも修道士の魂を救済するのと同じように。
 司牧論の位置付けとして、池上俊一先生により「ロマネスク世界論」(名古屋大学出版会1999年)において「司牧者としての司祭が、鋭い嗅覚をもって信徒たちのこころのうちに隠れた不徳や罪禍を探り当てねばならないとされ、その権能が権力行使の根幹となったのである。」(p48 )と述べられるほか阿部謹也先生の著作(西洋中世の罪と罰 亡霊の社会史 (講談社学術文庫1989年)など)にも現れる。阿部先生は引用元として明記しているが、おおもとはミシェル・フーコー「性の歴史1巻」(1976年、新潮社1986年)ではないだろうか。最近死のために中断していたフーコーの遺作の同4巻「肉の告白」が出て司牧論についてさらに深められている。フーコーは司牧論と告白の組み合わせでキリスト教会は人民の統治を行った。司牧論は国家理性として、告白は精神分析に発展していったと性の歴史1巻で論じている。2−4巻はその起源を探ることがテーマである。
 その司牧論のラテン語原文にsilentioで検索をかけ、そこだけChatGPTで翻訳しながめてみよう。下記にグレゴリオの解説へのリンク、司牧論の元データを示す。

Regulae Pastoralis  司牧論 沈黙 silentio
CAPUT IV
Ut sit rector discretus in silentio, utilis in verbo.
Sit rector discretus in silentio, utilis in verbo, ne aut tacenda proferat, aut proferenda reticescat. Nam sicut incauta locutio in errorem pertrahit, ita indiscretum silentium hos qui erudiri poterant, in errore derelinquit. Saepe namque rectores improvidi humanam amittere gratiam formidantes, loqui libere recta pertimescunt; et juxta Veritatis vocem (Joan. X, 12), nequaquam jam gregis costodiae Pastorum studio, sed mercenariorum vice deserviunt, quia veniente lupo fugiunt, dum se sub silentio abscondunt. Hinc namque eos per prophetam Dominus increpat, dicens: Canes muti non valentes latrare (Isai. LVI, 10). Hinc rursum queritur, dicens: Non ascendistis ex adverso, nec opposuistis murum pro domo Israel, ut staretis in praelio in die Domini (Ezech. XIII, 5). Ex adverso quippe ascendere, est pro defensione gregis voce libera hujus mundi potestatibus contraire. Et in die Domini in praelio stare, est pravis decertantibus ex justitiae amore resistere. Pastori enim recta timuisse dicere, quid est aliud quam tacendo terga praebuisse? qui nimirum si pro grege se objicit, murum pro domo Israel hostibus opponit. Hinc rursum delinquenti populo dicitur: Prophetae tui viderunt tibi falsa et stulta, nec aperiebant iniquitatem tuam; ut te ad poenitentiam provocarent (Thren. II, 14). Prophetae quippe in sacro eloquio nonnunquam doctores vocantur; qui dum fugitiva esse praesentia indicant, quae sunt ventura manifestant.
第4章
 指導者は沈黙の中で慎重であり、言葉の中で有益であるべきです。
指導者は沈黙の中で慎重であり、言葉の中で有益でなければなりません。何も言うべきでないことを言ったり、言うべきことを黙ってしまってはなりません。なぜなら、軽率な言葉は誤りに引き込むことがあり、同様に、指導者が教えを受けることができたであろう者たちに対する無分別な沈黙は、誤りの中に彼らを放置することがあります。しばしば無計画な指導者は、人間の好意を失うことを恐れて、真実を自由に語ることをためらいます。そして、真理の言葉(ヨハネ10:12)に従って、もはや羊の守り手としてではなく、傭兵のように働くことを選びます。なぜなら、狼が来ると逃げ出し、沈黙の中に身を隠すからです。主は預言者を通して、彼らを責め、『口をきかない無力な犬』(イザヤ書56:10)と言います。また、彼らに対して『あなたがたは逆らい出てこなかったし、イスラエルの家のために城壁を築いて立たなかった』とも言います(エゼキエル書13:5)。実際には逆らい出ることは、羊を守るためにこの世の権力に声を上げることであり、主の日に戦いに立つことは、悪と戦うために正義の愛から立ち上がることです。牧師が真実を言うことを恐れることは、沈黙によって背を向けることと同じです。なぜなら、彼が群れのために自らをさらけ出すならば、彼はイスラエルの家のために城壁を敵に対して築くことになるからです。そしてまた、罪を犯した人々に対して『あなたの預言者たちは、あなたに偽りと愚かなことを見せ、あなたの不義を明らかにせず、あなたを悔い改めさせるためにあなたを呼び起こさなかった』と言います(哀歌2:14)。聖書の中では時折、預言者たちは教師と呼ばれ、彼らは逃避的な存在を指し、未来の出来事を明らかにします。

https://la.wikisource.org/wiki/Regulae_Pastoralis/II.IV

 ベネディクトの第6章の「教えることと話すことは教師にふさわしく黙り聞くことは弟子に適して」いるというのに対応するように司牧論では「指導者は沈黙の中で慎重であり、言葉の中で有益でなければなりません。何も言うべきでないことを言ったり、言うべきことを黙ってしまってはなりません。」とある。
 さらに指導者は適切な発言をし、弟子の魂の教導を行い、むやみに沈黙していてはいけないという。上長になったからにはいつまでも修道士側にいてはだめ、ということでしょうか。そして「真理の言葉(ヨハネ10:12)に従って、もはや羊の守り手としてではなく、傭兵のように働」けという。これは修道士そしてそこから出世した修道院長は騎士階級出身であるとともにキュニコス派の戦闘的な生を伺いしることができる。
 次に「loqui libere recta pertimescunt」は「真実を自由に語ることをためらいます」というフレーズは以前紹介したパレーシアのラテン語表現を彷彿とさせ、さらに研究すべきかもしれない。しばらく後ろに行くと「牧師が真実を言うことを恐れることは、沈黙によって背を向けることと同じです」というフレーズがあり牧師と真理の表出というのは深く結びついていることがわかります。
 これも今日の組織マネジメントの起源としてみると、管理職をしている人には面白いのではないでしょうか。

アベラールと戒律・司牧論の関係

 アウグスティヌスの沈黙はベネディクトより緩いようである。アベラールは過多ではいけないとアウグスティヌスから引用していますが、これは当然ながら一致していますね。
 アベラールのいう「沈黙を契機とした思考と言葉の制御が重要」や「学びとは、心を何かに集中させる強力な努力」といった表現は戒律には今回の調査では見つけられなかった。
 城壁の比喩がアベラールにはあった「開かれた町や城壁で囲まれていない都市のように、自分の精神を制御できない人のようなものです。」(箴言25の28)。司牧論でも「イスラエルの家のために城壁を敵に対して築くことになるからです。」と出てくる。(時節柄パレスチナを囲っている城壁が気になる。)
 アベラールもエロイーズも修道院長という立場であるので、司牧論の要素が出てくるのかと考えたが、そういったことは出てこない。司牧論はアベラールとエロイーズでは別のことでは引用されている(岩波文庫 畠中訳 pp148,322)ので、二人にはちゃんと読まれてはいる。アベラールはアントニウスのような隠修士に憧れているので孤立に憧れている。指導者としてどのように指導するのか、そういう観点から私は考えていなかったので再検討や再抽出が必要です。

まとめ


 以上、戒律としてアウグスティヌス、ベネディクト、グレゴリウスの指導者向けノウハウ集「司牧論」について沈黙部分を概観してみました。
 時代とともに沈黙について細かな規定が加わってきたり、司牧論では逆に指導者はちゃんと指導しなさいというということが窺われた。
 次回フーコー編では、フーコーが紹介していたある論文を紹介します。なんと沈黙はピュタゴラス(ピタゴラス)の教団でも重視されすでに実践されていたそうです。

執筆後記

 司牧論を読んで、いつの世も組織を運営していくのは大変だなと別の方向で共感してしまいました。アベラールも地方の修道院に派遣された時に盗賊のような修道士で命を狙われていると嘆いていました。
 フーコーは司牧論で権力構造を主張しましたが、概念としては面白い。しかし、それでは逆に沈黙や告白を利用して下位のものを統治せよという明白な記述は上に見たようにないように思います。抑圧的な運営が前提だったか、あるいは抑圧的にもできるしそうならないよう深い敬虔をもって魂の教導をするという任意性があるのか、さらに近代国家の成立に向けて司牧論はいかに発展していったのかフーコーの講義録を読み解くなど、それらの点をさらに掘り下げていきたいところです。

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